正月の餅つき

motokiM2008-01-09

今年の正月と、去年の正月坂井さんの自宅にお邪魔した。昨年は、坂井さんはお元気だったが、昨年の5月9日に亡くなられた。
偶然の巡り会わせというのか、坂井さんの家に再びお邪魔する予定だった昨年の5月9日が坂井さんの命日となった。結果として亡くなられた日の夕方に駆けつけた形になったが、今思い浮かべても不思議なくらい偶然だった。
何も知らないまま坂井さんの家に向かっていた。スピーカーから大きな弦楽器の音楽が流れていた。赤いスチールの折りたたみ椅子が、所せましと置かれていた。自宅の周りには、黒い服を着た人が多いと思いながらも、その場にお坊さんを見つけるまで、誕生日の祝い事で歌合戦かなにか始まるのかと思った。どうも様子が違う、これは葬式だとわかったのは、妻マーメンさんがいつも以上に元気に出迎えてくださったからだった。「ほら、坂井さん、亡くなった」とあっさり語られた。
その日、マーメンさんに荷物を置けと言い渡されたのは、自宅の軒下の廊下であった。昨年の正月にはひ孫や近所の子供が遊んだ風船が置かれていたが、この日は、同じ軒の下には雨に打たれた死んだカゲロウとトンボの骸に蟻が寄り集まっていた。親類縁者が全てカレン族やパオ族などのいわゆるビルマから避難してきた人が多い中、僕だけが日本人であった。よほど地元の人に尊敬されているのか、絶え間なく人が訪れ、線香の火が絶えることがなかった。
葬式は7日間にわたり行われた。雨季に入ったばかりとあり、ひたすら雨が降りしきっていた。ただ、ご遺体が火葬場に運ばれた4日目の昼間だけ、晴れ間がさした。晴れたのはいいが、大粒の雨でメガネがスチーム状態になった。
葬式の最終日の朝、マーメンと孫たちが段ボール箱に入った坂井さんの持ち物を一緒に漁っていると、オリーブやバジルなど、ブラジルにいたときによく食べておられた食材と、2007年4月付で賞味期限が切れた永谷園のふりかけや、うどんのつゆやインスタントのカップそばが出てきた。
インスタントそばを見たとたんにふと、昨年の正月にインタビューしたときのことを思い出した。昭和15年に坂井さんは22歳を過ぎて、ブラジルのサンパウロから家族とともに日本へやってきた。
その時に日本へ向かう「さんとす丸」のスクリューのひとつが故障し、予定より10日も遅れて日本へ到着した。船に積まれた食糧が少なくて、腹が減ったまま日本に到着した。
そして、横浜港の税関を出た。生まれて初めて来た日本。故障の影響で生じた長旅。日本で旅館に着く前に、家族で天ぷらを食べた。「初めて食べた日本のそばのつゆがおいしかった」かみしめるように語られた。そのときのそばがおいしかったので、今度、時間があれば、作ってくれないかと頼まれた。
その約束をしたのが2007年の正月だった。
葬儀の最終日、天ぷらそばを作った。せめて生きておられるときに、ちゃんとしたそばの打ち方を知っていればよかったと思い返した。そして、坂井さんの孫が、気を利かせてキッコーマンのしょうゆと干しシイタケを買ってきて、乾麺のそばをお供えすることができた。
そして、今年の正月また坂井さんの家に行った。
晦日、近所に住まわれている中野弥一郎さん(87)の家で大晦日のそばを作った。
中野さんと坂井さんは1947年ごろ、戦後、ビルマに隠れていたころに知り合いになられた。坂井さんがカレン州タトンの町へ物資を輸送していたころ、中野さんと知り合いになった。お互いビルマ人の着物をまとっていたが、一目で日本人であることがわかったそうだ。
その中野さんが、別に残っていた元日本兵の自宅へ伺ったときに、マオンジーさんを紹介され、中野さんは結婚した。マオンジーさんの妹は、坂井さんの妻マーメンさんである。中野さんと坂井さんは義兄弟であり、亡くなられるこの年まで、お互いはビルマ語で話をされていた。それは、ビルマに隠れていた時の癖というのか、日本人であるということを隠さなければ、ビルマでは生き延びられなかったからだそうだ。
戦後、約13年間日本人であることを隠して生きた坂井さんは、タイにきて日本国籍を再取得され、タイで永住権を得られた。そして、ビルマ国境からわずか2キロのところに家を構えられ、日本人のまま坂井さんは亡くなられた。
昨年の正月に、坂井さんはタイに来て堂々と餅つきができるようになり、とてもうれしいですと語られた。ブラジル生まれであって、タイに住んでいても、私は日本人ですとしきりに伝えられた。坂井さんと一番近くにいた中野さん曰く「坂井さんの日本人であるという意識を支えたのは、年賀状は欠かさず出すことや、大晦日に餅をついて、正月に雑煮を食べることで、日本人ということを再認識されていたのであろう」と。
かく言われる中野さんご自身の家でも年末に餅をつかれている。