そばどころ小千谷の中野弥一郎さん

motokiM2008-01-16

「子供のころお父さんが頻繁にそばを打って作っていましたが、当時はあまり食べませんでした」2007年の大晦日をメーソットの中野弥一郎さんの家で過ごした。中野さんはそばどころで有名な新潟県小千谷で生まれたにもかかわらず、あまりそばを食べることが好きではなかったらしい。
子供の頃の大晦日は雪が一面の世界を覆っていたが、戦争がはじまり、中支から南方に送られて以来、中野さんは雪を見ていない。話の流れで、雪を見てみたいですかと聞いたが、中野さんは、気温が低くなると、上の血圧が180以上になるので、もう雪を見たいとも思わないそうだ。メーソットはタイの北西部にあたり、気温も夜になるとぐっと冷え込む。この1月ごろが一番冷え込む。さすがに雪は降らないが、朝方は東京の11月上旬の気温と同じほど寒い。
僕は、2006年の大晦日、坂井さんの家でそばを作ればよかったと後悔していたので、2007年は中野さんの家でそばを作った。とりあえず、一番値段の高い乾麺のそばを世田谷の小田急OXで選び、それをお土産で持っていった。
子供のころ中野さんがそばを好きではなかったことを知らずに、僕が、お土産でそばをもってゆくと、父親がそばを臼で挽いて打って作っていたころの話を聞かせていただいた。今は血圧を下げるということで、バンコクに出ると日本料理屋でよく食べるそうだ。
 台所に立って、いざ乾麺のそばを作ろうとすると、不思議そうに中野さんの奥さんマーオウチさん(78)がやって来た。中野さんご自身は、これまで台所で調理をしたことがないらしく、料理はすべてマーオウチさんに任せておられる。マーオウチさんは、ガスコンロの上に置かれた蒸し器をおもむろに開けると、豚の頭がそのまま蒸された状態で入っていた。
僕が台所でいろいろと調理器具を漁っていたので、腹でもすかしたのかとマーオウチさんは思ったのだろう。豚の頭の肉と内臓を油と香辛料で煮た料理を蟻塚の如く持ってこられた。この日の午前中、坂井さんの家で食いきれないような量の飯を頂いたばかりだったが、僕は、これからそばを作ろうとマーオウチさんの縄張りである台所に立つのである。残すのもよくないと口に入れたが、意外とあっさりしていた。
中野さんの家の飼い犬が、僕の皿に盛られた豚を知って足元で骨を落とせと待ち構え、さらに僕の椅子の横から猫が皿から漏れた豚肉に、どうにかありつこうと虎視眈眈として狙っている。どうしたことか、それまで興味や関心がないことが、誰かに狙われたりすると、自分のものだと独占したいという欲望の働く異意地汚い僕は、他の動物に分け与えるという余裕をなくし、一人でバクバクと頭の肉を食い貪った。
この豚の頭、日本ではまず見かけないが、イスラム圏を除く東南アジアではよく見かける。意外にもこの頭にはあまり脂肪分が少なく、ゼラチンが多い。歯触りも豚足をコリコリさせたような感じで、ほほから鼻の近辺の肉は、特に僕はうまいと思う。
話はそれたが、中野さんにそばを食べていただきたく、台所に立つ。まず、大根をすりおろした。それを粉わさびで和えると何となく本わさびのような触感になる。練りワサビを購入しても、誰も使わないようなので、家族の中の孫が次にそばを作るとき見よう見まねでマネしてくれることを望んで、現地にあるもので作ることにした。ネギも近くの市場から購入した。つゆもスルメと干しシイタケで作り、キッコーマンのしょうゆを買った。現地調達でできるだけ本格的に作ろうともがいた。
ようやくそばが出来上がり、中野さんに大晦日にそばを食べるのは久しぶりでしょうかと聞いた。「何年ぶりですか。本当に60年以上になります」とうれしそうに答えてくださった。
皿に盛って、台所に盛りそばを差し出し、中野さんに食べていただいた。
ご自宅には箸があるが、中野さんはフォークとスプーンを使ってもりそばを食べ始められた。この風景を見て戦後63年だとつくづく感じた。
なんだか差し出がましいものを作ってしまったと思ったが、中野さんは「ありがとうございました。おいしかったです」と言ってくださったのが何よりうれしかった。(続く)