2014ニッポンコネクション(5月)

   ニッポンコネクション
 日本国外でおそらく世界最大級の日本映画の映画祭「ニッポンコネクション」が5月27日から6月1までドイツのフランクフルトで開催された。今年で第十四回目だという。日本映画だけの上映なのに、ゲストも今年は70人ほどもいるという、なんと来客数は16000人程と、日本映画だけが上映される映画祭のなかでとてつもなくでかい。
 三言で現すならば、初めて行くのに懐かしく、気軽にスタッフが話しかけてくるアットホームな映画祭だった。初日から最終日の翌日の片づけの様子まで見てきた。すべて書くと長いが、まずは映画祭にたどり着くまでがひと苦労だったのだ。
 
 あなたはフランクフルトに行けません
 5月27日にドイツに向かった。今年の4月から私はブラジルのサンパウロに撮影の拠点を置いていて、南米の各地を取材で回ろうとしている。
「ブラジルの空港はときどき出国までに手間がかかるから出発の3時間前に着いたほうがいい」とブラジルに10年住んでいる友だちのアドバイスを聞き入れて、早めにサンパウロの空港に向かった。
 早めに着いたので、ワールドカップ関係のお土産でも見てみようと思っていた。しかしそんな思いは吹っ飛んだ。空港カウンターに着くや否や私が乗るはずだった飛行機のEチケットが無いと言われたのだ。
「あなたは今のチケットではフランクフルトに行けません!!!あなたのフライトチケットはキャンセルされたんです。バウチャーが発行された後に。すでにあなたのチケットは存在していません」と、ときどきブラジルの空港カウンタースタッフがポルトガル語スペイン語しか話さないこともあるが、幸か不幸かこのスタッフは英語で言っている。
 問題の根本というか、飛行機会社のスタッフが言っている意味が判らない。「私たちはわからない。どこのだれが買ったのか、あなたが買った先にクレームを入れてくれ」と繰り返す。
「これはドイツのニッポンコネクションという映画祭のプログラマーのペトラという人が買ってくれたチケットなのだ」と繰り返した。乗船を断られたということと、何一つ話がすすんでいないため、後ろに並んでいる行列を無視してカウンターに居座ることを決めた。パニックになっているうえに普段使っていないため忘れていたが、バッグにタブレットがあることを思い出した。
 「手元にEチケットがない。チケットがキャンセルされた。これから行く予定だった飛行機には乗れない」と映画祭のプログラマーのペトラにメールで連絡をした。
 2012年は拙作「相馬看花〜」が招待されたが「祭の馬」の撮影で行けなかった。今回は、せっかく作品が招待された映画祭に行けなくなるのか、そう思うともったいなくて気が気でなくなった。
 航空会社カウンターが閉まるまであと1時間にせまるが電話は来ない。出発の3時間前に行けという友だちの忠告は正しかった。
「映画祭のスタッフに頼んで出発を明日にのばしたらどうか」とやさしく航空会社のブラジル人男性スタッフが言う。それはだめなんだと粘る。この時間帯に飛行機に乗らないといけない事情があった。
 私の映画の上映は初日のNipppon visionsのトップバッター上映だ。 映画祭のプログラムは大きく分けてNippon cinema とNipppon visionsの二つの部門に分かれている。(アニメーション部門とレトロ部門もある)今年から両方とも観客賞の対象となっているが、その二つの違いは、ホームページによると日本社会からこぼれおちたものを集めているかどうかということになっている。的を当てているか判らないが、上映作品のバジェットや規模の違いからか、プロ野球高校野球のような違いか。どちらプログラムも見ていて楽しませてくれれるのには変わらない。ときどき高校野球のような大逆転試合でとんでもないエモーショナルな作品を観れるかもしれないのは、後者だろう。
 拙作の「祭の馬」は甲子園の開幕試合に上映されるのだ。このタイミングで飛行機に乗れないならば、映画上映後に映画祭に行ってもなんだか、自分の試合が終わったあとに甲子園へ行く高校球児のようもの。なんで自分がここにいるのか判らないようになってしまう。
  およそ30分くらいしてペトラが携帯に連絡してきた。カウンターが閉まるまであと30分だ。
 「だめなんだ。なにも言うことを聞いてくれない。キャンセルはドイツのベルリンで発行の3日後に行われたらしいが」と私の説明がなっていないからか、ペトラもますます焦る。ペトラも「なんで駄目なの?」とばかり。お互いパニックだ。空港のカウンターで居座っていたために、私の前に張り付いていた航空会社スタッフが電話に出た。
 「あなたに、なんらかのメールは送られていないのか?」
 バウチャーが発券されて三日後のメールが見つかった。ドイツ語だけのメールで、メールの受信箱から別のフォルダに移されていたメールを見つけた。ペトラに転送すると、その場で別の航空会社に移ることを決めて、直行便を見つけてくれた。おかげさまで、予定より早く着くことになり、開会式に間に合いそうだ。
 気分が晴れた。普段はペトラはドイツで客室乗務員をやっている。きっとそのノウハウが生きたのだとのんきになった。映画祭のプログラムディレクターも手弁当で参加しているのだ。
  飛行機の中はエイコのミークラスだったが、座席が空いていて3席をつぶして一人で足を延ばして寝た。空から見たフランクフルトは閑散とした都市のようだ。
 無事にドイツに到着。初ドイツ!

 胸は高鳴り、鼻息を荒く
 フランクフルトの空港には映画祭スタッフのミズエさんという、おどろくほどきれいな女性に迎えてもらった。さっそく「松林監督」と呼ばれ、なんか勘違いして心ときめきながら空港から町に向かう。勝手にその気になって「ミズエさんきれいですね」と外見をほめながら数分話していると「私、結婚してスイスに住んでいるんですが、今回は志願してやってきたんです」と気を利かせてこれ以上口説かないでくださいと、ミズエさんに先回りしてもらった。ニッポンコネクションはミズエさんのようにボランティアで隣国から駆けつけるスタッフがいるところがすごい。
 このフランクフルトで行われるニッポンコネクションは(「フラッシュバックメモリーズ」「トウキョードリフター」「ライブテープ」など)ドキュメンタリー映画監督の松江哲明さんが奥さんと出会ったきっかけの映画祭であるということは有名である。
 そんなこともあり「あわよくばオレも松江さんに続け」と鼻息を荒くしていた。
会場に向かう車で「ドイツ語で彼女募集中ってなんて言えばいいんですか?」と懲りずにさらに続けた。最近、実は一度だけおいしい思いをしたことがあった。私が今回ブラジルに行くことになったのはサンパウロとリオで行われたE tudo Verdade Film Festival で上映されたからだ。そして、リオのイパネマで行われた上映の前に「エウケーロナモラーダ(わたし彼女募集中)」とクソ片言のポルトガル語で言ったところ、上映後に老若問わず、10人以上の観客に取り囲まれ、その後、その中の一人の方に、お世話をしてもらったとことがあった。だから、調子に乗って今回も転がり込もうとした。
 彼女募集作戦は、結果的にいえばニッポンコネクションにおいて得点ならず。2006年のワールドカップの予選クロアチア戦。日本代表の柳沢が誰もいないゴール前で突然ボールが来て、そのままシュートすべきところを、ゴール前にまたパスを出してしまったことと全く同じようなへまを犯した。
 映画祭に着いたら彼女を作ることが先決だと、上映のことよりもそればかり考えているうちでは到底彼女もできず、真っ当な映画監督とは言えないだろうが、そんな私のようにドジな野郎でも分けへだてなく受け入れてもらえた。

 宿泊先はレゴブロックの中に囲まれて
「宿泊先はホームステイを希望します」と事前に頼んでいたこともあり、街中のアパートに住む映画関係者の人の家に泊まった。ニッポンコネクションはもう一人映画祭のプログラマーで映画祭ディレクターのマリオンが、学生の時に企画して始まった。2011年までは今の会場上映ではなく、大学での上映だったらしい。
 スタッフもボランティアで参加している人がほとんどで、滞在費の負担は、映画祭の予算の中で割高なはずだ。私は、土地に行けば、出来るだけ地元の暮らしをみてみたいという気持ちから申し込んだ。これは当りだった。
 映画祭メイン会場から徒歩で40分程度、地下鉄で乗り継いで15分程度のHolzhausenstrという場所だった。
 地下鉄の出入り口の真上にある部屋に案内された。宿泊先は母子家庭でほかにシェアメートが一人いる3人暮しの家だ。ことし9歳になるウバン君の勉強部屋でレゴブロックに囲まれた。
「これが、オレが作った宇宙船!!!」と企画品ではなくオリジナルに作ったというその高性能のレゴのエンジンを自慢してもらった。そんなウバン君の説明もよそに、急いで会場に向かわなければならなかった。

 映画祭初日
 到着の1時間後には、ダボシャツと地下足袋レイバンのグラサンをキメて、70年代のヤクザ映画に出てくるチンピラのごとく行く。実は、ブラジルに発つ日に世田谷のアパートの近所で植木の刈り込みをやっていた友人の庭師の小野さんに「外国で地下足袋はいていると忍者シューズとか言って人気があるそうですよ」と出発直前にもらった地下足袋をはいて臨んだ。外国人が思う偏った日本のイメージでも作ろうと。
  
 ゲストリレーションのまゆさんは福岡県人、それだけでトモダチ
 映画祭会場は大きく分けると4つある。MerianPlazというメイン会場の2つがある駅と、少し離れた再上映をやるMal Sehn Kinoという会場だ。あと川沿いにあるレトロスぺクティブのドイツ映画博物館。この博物館には足を運んでいない。
 私はこの映画祭中、一度も観光をせず、。MerianPlazというメイン会場とホームスティ先しか知らない。戻りの飛行機に乗る前に、映画祭スタッフにこの事情を説明したところ、すこし観光地らしいところを車で回ってくれた。これだけで十分だった。日本公開中に見逃したやつを徹底的に見てやろうとこの映画祭に臨んだ。
 映画祭会場に着き、パンフレットやパス証などをもらう。福岡出身のまゆさんとい女性が映画祭のゲストリレーション担当。まゆさんの実家が私が高校の時に通っていた男子校のそばだということが判明。「鳥飼に住んでいたんですね」それだけで一瞬で古くからの友だちに再会したような気分になった。

 あわやオープニング上映の監督不在
 映画祭初日のNippon Cinema部門のオープニング作品「福福荘の福ちゃん」が上映される。メイン会場はほぼ満席になっている。監督の藤田さんも私と同じく何らかの事情でなんと飛行機に乗り遅れているという情報をゲット。もし二人とも飛行機に乗り遅れていたら、たぶんとんでもないオープニングになったのだろう。ペトラの慌てぶりの理由が判った。
 
 Nippon Cinema部門のオープニング作品上映前に藤田監督の挨拶が行われないということらしく「福福荘の福ちゃん」の上映前に突然、グラサンチンピラみたいなやつ(私)が表れて「私の映画は、この映画ではないです、30分後に別会場で上映します。QAもあります、急いでください」と言うつもりでいたが、一応、そのことを映画祭のプログラマーのペトラに筋を通したほうがいいと思って相談すると「ちょっと止めといて」と制された。
 あとで、藤田監督に会って話したところ「そうやって時間稼ぎでもやってもらって良かったのに」と言われた。こういうのはゲリラ的にやらないと意味がない。
 オープニングの上映で決して入らないだろうと思っていたが、そんな思いもよそに、盛大なオープニング上映の別会場の地味に行われた最初の上映にかかわらず、150人程度の劇場で、6割くらいのお客さんに観てもらった。
 映画の上映前ドイツ語で覚えた「イッヒ ズーヘ アイネ フロイディン(彼女募集中っす)、あと、プロデューサーも募集してます」と言うと上映前の会場が沸いた。
 してやったりとほくそ笑んで会場を出た。上映中に映画を一緒に観ない。
 実は見た目に反して、私はすごく気が小さい。上映中にあるシーンで人が一人でも立って帰ろうものなら、その日は眠られないほど落ち込むこともある。一喜一憂する場合かと、それを意識しないために外に出たが、一人も上映中に出なかった。
 いままで「祭の馬」の上映にかなりの回数で立ち会ったが、とくにニッポンコネクションのQAはすごかった。初めに、撮った経緯について、空港でチケットの件でたすけもらったペトラさんがモデレーター(司会進行)を務め、呼び水のようにかって出てくれた。上映直後に数人が出ただけで、この映画の背景のことを知りたいお客さんの質問攻めにあった。
 「あの馬のチンチンはメタファーなのか?」という拙作の根幹をなすだろう、ダイレクトな質問から始まった。福島に関する映画だと、医学的な質問が多く受けることがある。私は科学者ではないから判らないと答えるが、健全な状態にはないと思うという。無事、QAも終わり、会場の外で話をしていた。ディレクターのマリオンとは東京で何度もあっていたが、フランクフルトで会うのは初めてだった。マリオンに「アップルワイン」と言って渡されたリンゴ酒を飲んだ。
 お客さんと対話が出来てよかったと伝えたところ、「14回目の映画祭よ。私たちは、これまででたくさんの人に日本の映画を見てもらって、お客さんとの関係を作っているの。まあ、映画祭を通じて映画というか日本というか、つまりお客さんと対話して教育しているんだよ」とマリオンが言う。お客さんの教育か。日本でそんなことを話していたのは、独立映画鍋の深田さんくらいしかないよな、とひとりごちた。
 この日は緊張していたせいか、酒をいくら飲んでも酔わない。オープニング作品「福福荘の福ちゃん」の藤田さんの上映後のQAが行われないらしく、メイン会場からどっと観客の集団がやってきた。もう少し早く来ればよかったのにと思ったが、その日は、ドキュメンタリー映画田立て続けに上映された。ハナフサ監督の「ある精肉店のはなし」には9割近くの人が来ていた。日本で見ていた作品だったので、見なかったが上映後に盛大な拍手が起きたという。そして今年の観客賞は「ある精肉店のはなし」となった。


  タクシードライバーはアフガン人
 上映初日にもかかわらず、私はすっかり時差ぼけで、夜の12時になっても全く眠くない。他の日本からのゲストが一人もいなくなった。当たり前だ。日本時間では午前7時。逆に5時間の時差でブラジル時間では午後7時。これからハッピーアワーだ。一人でいる私を見かねた映画祭スタッフと酒を飲んで、夜な夜な終電を逃し、午前2時ごろまでフラフラしていた。
 今日は初日だし、タクシーに乗って帰ろうと思い、駅前まで歩いて行った。家までの住所を見せる。だいたい10ユーロくらいだという。車に乗った。運転しているのは、髭の伸びたイスラム系の男だ。英語とドイツ語をしゃべる。タクシーの運転手の名前を見たらアブドラ サタールと書かれている。典型的なアフガン人の名前だ。書くと長くなるが、私はわけあって、パシュトゥ語というパキスタンアフガニスタン公用語のひとつを日常会話くらいはしゃべることが出来る。
「運転手さんはアフガニスタンから来たんですか?」と聞く。運転手は驚いて「どうしてお前はパシュトゥができるんだ?」と驚かれた。いつもそうだが、日本人の私がパシュトゥ語をしゃべるとアフガン人で日本人そっくりなモンゴロイドのハザラ族と間違えられる。しかし私は日本人だと繰り返して、日本のNGOで用水路づくりに加わったことがあり、それでパシュトゥ語が出来るんだといった。パキスタンの国境から近いジャララバードと言う町にいたと言ったら、眼の色が変わった。運転手さんはその町の出身だったからだ。先ほどの福岡出身のまゆさんのように今度は運転手さんと一瞬で友だちになった。
 アフガン人のタクシードライバーは世界中にいる。パシュトゥ語で運転手を呼ぶ時「オスターザ」といい、日本語の「先生」とほぼ同義語だ。誇り高いアフガン人は、運転手という仕事を誇りにしていることは知っていた。
 実は2006年にアメリカのニューヨークに企業PR映像の撮影で行った時も運転手がアフガン人だったことがあった。ニューヨークのイェローキャブは、そこでアフガン系の経営者だということを聞いたこともある。昨年末に参加したドバイ映画祭のタクシーの運転手もアフガン人だった。日本で中古車をドバイ経由で輸出入しているのもだいたいパキスタン系のアフガン人が多い。そんなわけで、ドイツにもアフガン人がいたとしても驚くことはなかった。
 運転手さんはどう見ても50代後半か60代のおじさんだ。アフガンでは「スピンギラ(白ひげ)」と呼ばれ、年下から敬われはじめる世代だ。「スピンギラオスターザ(白ひげ運転手さん)」とあだ名を付けた。さらに話を進めるとどうやってここに来たのかということになった。「1979年にアフガンにソ連が来た。当時は20代で妻も家族もいた。だが、家族を連れてパキスタンに難民として80年に行った。仕事がない。81年に難民申請して移民としてシンガポールに向かったが、空港で入国拒否。約2カ月シンガポールの入管で収容された、しかし、あきらめずにつてをたどったら、遠い親戚のつてがフランクフルトにあることが判り、シンガポールからやって来た。ここにきてからタクシーの運転手一筋。念願だった家族を89年にみんな招き寄せている、いま息子も運転手をやっている」という。
 人に歴史ありだなと思って話を聞き入った、ホームステイ先に着いた。支払いをしようとしたが、タクシー代10ユーロの金を受け取らなかった。日本人がアフガンのことを関心持ってくれてでうれしくてたまらないと言われた。久々、誇り高いアフガン人にあえた。わざわざ運転手さんは車から降りて「ホダイパマン(ご加護がありますように)」と抱擁をし別れた。
 その後、運転手さんと再会することはなかった。ただ毎日飲んだくれて終電を逃していたので、7日間毎日タクシーで帰ったが、そのうちの4人がアフガン人かパキスタン人だった。なので、毎回パシュトゥ語を話して運転手さんを驚かせたが、金を受け取らなかったのは、ジャララバード出身のアブドラサタールだけだった。
 
 映画鑑賞
 その後は、脚本家であり映画監督の井上淳一さんとつるんだ。日本から知り合いだったわけではなく映画を観ようと映画館で並んでいる時に声をかけられた。
  井上さんが脚本でかかわっている「あいときぼうのまち」を拝見。
 映画は福島を舞台に1945年代、1960年代、2011年から現在へと時間軸を交差させる脚本がよくできている。私はいつか劇映画をつくってみようとたくらんでいる身として、素直に「こんど脚本書いたらぜひ、ご指導お願いします」というほど、いい脚本だった。
 だが、同時に井上さんの監督作の「戦争と一人の女」も上映されたが、東京で劇場公開中に拝見して、「セリフで説明し過ぎで、若松孝二キャタピラー劣化コピーみたいな、井上さん自身のオリジナリティを感じない映画でした」と率直に自分の感想を伝えた直後だったので、なんて松林は調子のいいやつだと井上さんも思ったのかもしれない。
 井上さんは、若松プロで鍛えられたそのきめ細かい気配りなど、一緒に数日間つるむだけで、刺激的な人だとわかった。
 とくに、二日目以降など、一緒に映画を数本見た。「立候補」の藤岡充俊監督さんとプロデューサーの木野内哲也さんと知り合った。ポレポレ東中野で観て感動したことを伝えた。ドキュメンタリー専門雑誌であるここではおおっぴらに書けないが、この作品には嫉妬するほどエンターテイメントが貫かれており、素直に2013年に観た日本のドキュメンタリーで一番好きでしたと感想を伝えた。
 今村彩子さんの「架け橋〜聞こえなかった311」を拝見。1970年代後半生まれの同世代の映画監督だ。今村さんは今は大学の非常勤だったり、学校の先生をしているそうだ。ニッポンコネクションのオープニングレセプションでチラシをもらっていた時から必ず見るつもりだった。今村さんは耳が子供のころから聞こえない。10年くらい前にアメリカのカリフォルニア州立大学で映像教育を受けた。そのため今村さんは手話の英会話が出来る。今回の映画祭の上映をプログラムした我らが森宗厚子。森宗さんがどうしてもこの映画を上映したいのか判った。ニコラフィリベールの「音のない世界」を観ればわかると思うが、ろうあ者は2週間ほどあればだいたい会話のやり取りが出来るというインタビューカットがある。どういう作品か、どう話が進むのか楽しみになった。ときどき無音の映像を観ると音があるときよりも感情的にみえる場合がある。
 今村さんが監督しているこれを見逃すわけにはいかない。どういう内容なのか関心があった。作品の視点が、オリジナリティにあふれていた。他の誰でもない今村さんしか撮れない。今村さんの視点を案内する小泉さんという信頼のおける主人公のおじいさんが仲間のろうあ者を訪ねまわる。ある避難所にいた菊池さんという女性は、今村さんたちのロケが来て、それまでこわばっていた感情が抑えきれないシーン。力強いショットだった。
 映画の作りとして、正直言えば、健聴者に配慮し過ぎていた。それはところどころに音楽を使っていたからだ。今村さんは音楽が聞けない。今村さんが信用して音楽を頼んだ方だろうから、あまり悪くも言えないが、音楽がつくことで違和感しか感じなかった。想像力をそがれた。ラストシーンの回想シーン。すしに醤油をたらしたつもりがウスターソースだったような違和感を感じた。この回想シーンは今村さんの主観に映る。ならば、無音がしっくりきたのじゃないだろうか。無音が映像表現でもっとも感情的に訴え、力強いと思うと一方的に自分の意見をぶつけ感想を伝えた。今後も今村さんの作る映画をじっくりと観てみたいと伝えた。
 実はこの映画祭で一番見たかった太田信吾監督「わたしたちにゆるされた特別な時間の終わり」。昨年の山形でもなんだかんだ、イベントとかが重なっており観に行けなかった。
 間違いない、はっきりいう、この映画には圧倒された。キュンとさせられた。まるで甲子園出場をかけた重要な試合で、9回裏2アウト満塁、一打逆転。しかし、サードゴロをトンネルして逆転されたチーム。逆転された側からみているような気分だった。あんときああしていれば、もしかしたら。とりとめのない気持ちになった。
 打ちのめされた。
この映画を観た時、私が二十歳の時に自殺した友人を思い出した。県議会議員のせがれとして生まれ、成績優秀なクソ真面目な生き方を強要された。オヤジは家の中の呑んだくて偉そうに母親を怒鳴りつける、いったん人前に一度でるとセンセーと呼ばれ、年寄りの手を握り締め「なんでも困ったことがあったら私にたのんでください」と。本当に困っていたのは家庭内だと。選挙運動で駆けまわる外面のいい議員とオヤジの表情の間に、人として受け入れがたいものがあったことを何度も聞いた。 
 親との関係に悩んでいたことはしっていた。そもそも、私がアジア各地を風来坊のように旅行をするきっかけになったのもヤツの部屋に「バックパッカーはインドを目指す」という読みかけの本が、ベッドにそのままになっていたことが一つだった。
供養のためにもヤツがいけなかったインドに向かったのが映像を撮ってドキュメンタリストをめざすきっかけになったんだと。今いる立ち位置を再確認した。
 上映前に主人公のソータ君のお母さんと弟さんが舞台に出て「この映画に出てくる息子は死んでしまったけど、この映画のソータを通じてあらたに人と出会えたらうれしく思う」と挨拶があった。この映画は他人事に思えなく、自分の人生の中で一番ひとに自分から言い出しにくいことの一つ「近しい仲間が自殺したこと」をフィクションとノンフィクションを両面から切り込んでいるスタイルに圧倒され泣かされた。
 この映画を観ない限り、自殺してしまった友人の持っていた本。レコード。ターンテーブル。自転車。家具がない部屋。段ボールが家具がわり。布団がなく寝袋しかない。こんなささいなことなんて思い返さなかった。
 
 映画祭閉幕
映画祭に最初から最後までいたのは今回が初めて。閉会式の会場の前でタバコでも吸っていたら、森宗さんが中に入ってくださいと珍しく強い口調で怒られた。私と森宗さんの関係は古く、経堂の場末の居酒屋で飲んだくれている時から、知っていた。当時、東京で映画祭事務局で働いていた森宗さん。まさか、10年以上後に、フランクフルトに招いてくれるとは思いもよらなかった。フランクフルトの街は映画祭会場の近所しか知らないが、おなかいっぱいになった。