ブラジル生まれの坂井さんの日本

motokiM2008-02-07

「オハヨウゴザイマス。オヤスミナサイ。モノヲダイジニシナサイ。ギョウギガワルイデス。それと、学校に行く前によく言う…ガッコウ二イッテキマス」と坂井さんの葬式が終わった日に、孫のカポークさん(29)とキャンディさん(26)に、祖父坂井勇さんに教えてもらった日本語の話を聞いた。子供のころ、鉛筆の使い方で坂井さんから、物を大事にしなさいと注意を受けていたそうだ。
ブラジル生まれで、日本語の読み書きが得意ではなかった坂井さんは、孫にできるだけ日本語を教えようと、たびたびメーソットの自宅に訪ねてくる日本からの来客に、平仮名の練習帳を土産に頼んでいた。坂井さんはサンパウロから離れたサンタエルスチナで育ち、近くに日本語学校がなかったので、日本語教育が受けられなかったと言うことだった。そのためか、孫は、ほとんど日本語の会話はわからないが、平仮名は今も読めるという。
坂井さんの葬式の後、僕と同世代の孫二人が、故人の写真を見ていた。坂井さんがいつも大切に写真を保存していた錆びついた缶の菓子箱の中に、日本の漫画が入っていた。今でこそタイではタイ語に翻訳された日本漫画はありふれているが、坂井さんの家には日本語で書かれた「かっとばせ!キヨハラくん」(コロコロコミックで1987年ごろから1994年まで連載されていたギャグ漫画)の第4巻があったのには驚いた。ちょうど、僕が小学校3年生ごろのことだろうか。その当時の漫画がそのままあった。同世代の孫はこの漫画を見たことがあるらしく、懐かしく笑っていた。
坂井さんご自身は、1年ほどしか、日本に暮らしていなかったにもかかわらず、孫にたくさん日本の習慣を教えていた。生まれ故郷はブラジルサンパウロ郊外。23歳で日本に来て、1年足らずで招集され、ピョンヤンで編成され、マレー、シンガポールビルマと転戦し、ビルマで家族を持ち、タイに1958年に移住された。
外国に永く住んでいる日本人と話す機会が度々あるが、その方たちが押し並べて言うのは、日本を離れていればいるほど、その反動というのだろうか、日本を恋しく思うと聞いたことがある。外国生まれで、戦後もビルマ・タイで過ごされた坂井さん自身の拠り所は、日本文化に対して、強い憧れを持ち続けてこられたように感じて仕方がない。
なかでも、特に印象に残った話は、孫が幼いころ、坂井さんはものすごく喜んで、苗木を喜んで買って来たそうだ。お爺さんが、こんなに喜んで苗木を買ってきたから、孫は、何かおいしい果物が成るものだろうと思っていた。家族にこれは日本の有名な花だと前置きして、自宅の前に大切にと苗木を植えたそうだ。
それから数年がたち、中野弥一郎さんの家に「庭にサクラが咲いた」坂井さんが喜んで報告に来られたそうだ。中野さんは少し日本の桜とは違うと思いながらも、きれいに花が咲いたと喜んだそうだ。坂井さんの孫も、植えていた花はサクラと記憶していたが、花から果物は成らなかった。
その話を聞いて僕は、確か熱帯のメーソットではソメイヨシノは咲かないはずだと思った。ただ、どうやって桜を植えていたのだろうかと気になった。奥さんのマーメンにそれを見たいと申し出たが、坂井さんの二男、ウィワットが2001年に亡くなった時、家を壊すため、一緒に桜の木が切られたということだった。

それを確認できないのは残念だと思っていた。
今年の正月、再び訪れると、坂井さんの妻であるマーメンが、古い家から古い写真が見つかったという。昔の写真を見ると、浴衣を着てメーソットの祭に出ている写真があった。そして、サクラに囲まれた坂井さんの写真が出てきた。明らかに日本のソメイヨシノとは違う。坂井さんは、花の前で胸を張っている。
いわゆるタイ桜といわれる木の前で写を撮っておられる。話すたびに「私は日本の心を持っております」と誇らしく語っていた。なぜかこのサクラの前で裸になっている坂井さん写真を見て、日本を懐かしく思い出した。
同時に、この写真を見ながら、国としての日本は、制度に固執し、これほどまで日本文化に憧れをもち続けている家族に対して、冷たい印象を思い出した。
坂井さんの葬式の間、娘のソンブンさんより、在タイ日本大使館に提出する書類について相談を受けた。日本語が読めない家族にとって、提出書類の内容を把握するのすら、一苦労である。
とりあえず、重要な書類が入った坂井さんのカバンを持っていくことにして、メーソットの役所が発行する死亡通知書と、坂井さんが受け取っていた恩給の失権届の手続きが必要だとわかった。そして、遺族は、恩給の扶助料を申請できるかもしれないということがわかった。坂井さんが亡くなった後も普通の未亡人であれば、軍人恩給の扶助料を申請ができる。坂井さんは、昭和58年より、戦友の計らいで、軍人恩給を受け取っていた。
葬式の後、娘のソンブンさんと孫のカポークと共に、バンコクにある日本大使館に赴いた。
坂井さんの妻マーメンさんは、昭和33年11月にビルマからタイのメーソットにやって来た避難民であり、戦後のドタバタの時にビルマで結婚された。日本軍で培った技術を生かし、坂井さんは車の修理工などをして、カレン州で暮らしていた。
当時、ビルマにおいて、公的な機関に出頭して、結婚の書類を提出すれば、日本人であることが判明し、殺されるか、もしくはラングーンの刑務所に送られることとなる。昭和33年に、ビルマからタイへ避難してきた後も、マーメンさんの身分は、ビルマからの難民ということで、タイ国籍ではない。避難民のマーメンさんには、日本人の配偶者という正式な書類を発行できない。
上の理由で、坂井さん夫婦は、タイの役所やビルマの役所などの公的機関によって結婚を証明する書類が存在しないため、恩給の扶助料を申請することができない。そうバンコク日本大使館から返答を受けた。(これは、中野弥一郎さんの家族にも同じようにあてはまる)「メーソットの元軍人の坂井勇」は大使館でも有名人であった。そのためか、大使館の職員もすごく丁寧に接して下さったが、恩給の扶助料に関して、やはり、融通は利かない。少し書類を探せば何とかなりそうだと僕は思い、長女のソンブンさんに、書類を探すように伝えた。
ところがマーメンは、ビルマで結婚した時の書類を探したり、避難してきた当時の古い書類を探したりするだろうと思っていたが、「それなら、生活に苦しんでいるほかの日本の人に扶助料を回していただくほうがいい」とあっさりと探すのをやめたという。
僕は、戦後日本が追い求めた日本円至上主義の価値観にドップリ浸かっていると感じる。そして、坂井さんが築いた家庭との価値観の差を痛感した。