木曽川の古山さん

motokiM2008-01-19

バンコクの中心部にサイアムという駅がある。この地区に、日本の元兵隊さんがいるという話を聞きつけた。古山十郎さんという名前と住所の情報。事前に、今度、尋ねますと電話を鳴らしたが、だれも出ない。
サイアムは日本や欧米からの買い物を楽しむ観光客が多い観光地域であり、そこから10分足らずで氏の家がある。訪れるにあたり年末に近いので、小田急OXで買ったそばを土産で持っていくことにした。
スカイトレインを降りて捜し歩く。氏の家に行く道には、コンクリート色が黒ずんだ古びた連れ込み宿があり、華僑の家に張られた張り紙には「金玉満堂」や「財源廣進」などと書かれ、古めかしい赤提灯の飾り物が目につく。観光地域からわずか10分で地元の色が強いバンコクがある。連れ込み宿の次は、赤線街。もし新大久保がタイにあると仮定するならば、ここはそれに近い猥雑な雰囲気だろうか。
日本兵のおじいさんがここにいるのかどうかわからないまま、住所の場所を当った。住所の場所は、日本の公団の集合住宅をそのまま縦に割ったような家である。家の前には、古めかしい提灯がある。住所の前に立つと、家の前で華僑の日報新聞を読む老人がいた。新聞の文字は日本語ではない。
ああ、やっぱりここではないのか。と一瞬思ったが、一応大声で「あのー古山さんのお宅ですか」と話しかけると。「ええ、お宅はどちらさんで」と聞き返された。
経緯を一通り説明して、土産物を渡す。久々の日本人の来客らしく、喜んで出迎えてくださる。
大正6年生まれ。愛知県の木曽川出身。尾張弁というのだろうか。たぶんだが、その地方の古い言葉となまりを感じる。タモリがモノマネしていたエビふりゃーの名古屋弁とは全く違う。
事前に電話をして来たのですが、誰も出なかったと伝えると、昼間は近所を散歩しているので、うちの家内も出なかったかもしれませんとのこと。古山さんの奥さんは、シンガポール出身のタイ人系の華僑であり、戦時中に1942年ごろから日本人学校に通っておられた。当時、昭南島シンガポール)の日本人の家に養子に出されたこともあり、戦時中は日本語の日常会話程度ができられたそうだが、今は全く日本語を解されない。お二人の会話はタイ語である。戦後、バンコクに日本の綿布の商社が出てくる前まで、砂糖工場で働いていたそうだ。戦前の話となると気が重くなられるらしく、あまり話したがられない。90歳を過ぎたお爺さんにあまり無理させたくないと思いながらも、執拗に聞いた。
古山さんは、戦時中はバンポンという泰緬鉄道の駅の街で、豪州兵の捕虜を使って使役にあたっておられたそうで、戦後、捕虜虐待による戦犯になることを恐れ、連合軍の捕虜にならず、日本軍を出たということだった。
僕は、恐る恐る捕虜の虐待について具体的にどんなものなのかと聞くと、これ以上とない沈黙が続く。「実際、私に関して、捕虜虐待はありませんでした。私自身、豪州兵とテニスをやっており、楽しんでおりました」そう語られる。それではなぜ、軍を出る必要があったのかと聞くが「どんなことをしようと、連合軍の捕虜にかかわった同じ部隊の皆が、戦犯としてシンガポールにつれて行かれました」自分から好き好んで虐待にかかわらない、命令がない限り何もしない。誰の命令で、この作戦が行われたのだろうか。
気を取り直して、先ほど読んでおられた新聞について聞くと「こちらの新聞は、ほとんど内容はわかります。日本語の新聞より現地の情報が多いですし、読みやすいですよ」ということだ。日本人の観光客の多くが買い物に出かける地区に住んでおられるが、あまり日本語を使う機会もないそうだ。「近所が全てタイの華僑に囲まれています。でも、漢字の新聞を読んでいるのは私だけです。タイ人化した華僑の2世3世はほとんど漢字が読めないのです。日本人が読んでいるというのも不思議なものですね」日本茶を飲みながら語られた。
(続く)