沖縄の伊波さん(2)

motokiM2007-12-26

伊波さんは、渡した土産のニガウリを見て「沖縄ではよく食べておりました」と喜んで下さった。伊波という名前で沖縄出身だと勘が働いたと告げた。ニガウリが起点になり、その後の取材を好意的に受け入れてくださることになった。
伊波廣泰さんは大正9年に沖縄に生まれた。
日本人の多いバンコクで商売をしてこられたためか、日本語にはたどたどしさはない。年代ごとに整理されたアルバムを見せてくださる。写真の裏には、伊波鉄工所とスタンプが押されている。話の中で、タイにおける農業用ポンプの創始者だと分った。日本に一時帰国したときに、日本の灌漑施設をみてタイにその施設を導入された。農業用ポンプを5000本近く作り、大量生産をせず、一つ一つが手作りだということだ。実際、今でもタイ中部のエビ養殖場で使われているポンプにはイナミポンプのロゴが入っている。
どういう経緯で、こちらに残ったのでしょうかと聞いても、町の職工をしていて、そのころから日本社会とあまり合わなかったかもしれないですと言うことだ。理由があまりはっきりしない。
そもそも、沖縄県国頭郡から8歳のとき大阪へ移住した。当時、沖縄の言葉が全く通じず、すごくからかわれていた。成績も学校で一番どん尻になり、周りの同じ年ごろの子供と遊ぶことを避けていた。学校にいてもすごくほかの子たちと一緒に遊ぶことなく、工作ばかりやっていた。少年の伊波さんを今でいう転校生のいじめられっ子のような気もするが、そのつらさを逆境に、工作にのめりこんで、最終的にはタイで鉄工所を作るにいたった。職工時代もほかの職工から卑下されるのが、いやだったそうで、結果をできるだけ出そうとがんばった。大阪での経験のそのおかげで、生涯を通じて何かものを作ることに集中できるようになりましたと誇らしく語られる。
ただ、友達がいないのは寂しさとかなかったですか?と伺うと。13歳ときに床屋の職人をやっていた父親のところに、上海から華僑の職人家族が引っ越してきた。床屋の職人の長女は伊波さんより1歳年上でリンリンと呼ばれていた。お互い言葉に不自由していたからか、ものすごく仲が良くなった。そして、華僑の一家が日本語を覚えるより、伊波さんがいち早くマンダリンを覚えたそうだ。
戦時中、シンガポールで工兵だったころも華僑とよく話をしていたそうだ。そして、大本営発表とは全く違う情報が次々と入り、沖縄の地上戦を聞いた時、どうしようもなくつらい気分になった。シンガポールからタイに向かう列車の中で終戦を迎えた。
タイに流れ着きバンコクのドムアンで日本軍を待っていたが、待てども誰も来ない。そこで建設業の華僑から声をかけられて、気づいたら中国人の振りをしてマンダリンで答えていた。同じ華僑でも潮州人系の話すマンダリンと伊波さんが話すマンダリンのレベルが同じだったことから、ばれなかったそうだ。
ここでなら生き延びられると思って、軍を出ようと決めた。職工や工兵で培った技術が身を助けるだろうと漠然とした自信があったそうである。
戦後13年して大使館ができて、公に日本人と名乗ることができるまで中国人で身分を隠していたそうだ。当時の中華系の奥さんから「華僑だと思って結婚したつもりが、日本人の旦那に変わってしまった」とからかわれた。
経済的にゆとりが出てきて、3度沖縄に帰ったそうだ。昔は何もなかった島でしたが、今はアメリカ軍の基地ばかりですねと飄々と語られた。
(続く)