沖縄の伊波さん(3)

motokiM2008-01-28

「80歳になり、私が一番年寄りだろうと思って、沖縄の国頭郡に一時戻ったら、私よりも年寄りが多く、100歳の老人からまだまだ若いからもう少し年をとって戻って来なさいといわれました」伊波さんが故郷に戻った様子を上のように笑いながら話された。
伊波さんの生まれ故郷は海外への移民が多い。フィリピン・ミンダナオのダバオでマニラ麻を作った移民。ハワイでサトウキビ畑を作った移民。たくさんが、海外に移住されたという。そもそも、沖縄県でも生まれ故郷は特に土地が肥えていないところだったということで、多くの人が職を求めて海外や内地に移った。氏も幼いころから海外に憧れをもっており、内地よりも外国に関心があったということだ。氏にとって、職工時代に過ごした大阪に比べると沖縄は、思い入れ深い故郷だそうだ。
取材を終えた雨季のある日、雨宿りのために入ったチェンマイの宿で、沖縄出身で琉球大の3年生の野中光君と知り合った。世界中を旅行するために休学しているという。彼に伊波さんの話をしたところ、野中君は伊波さんにぜひお会いしたいという。伊波さんの家への行程を伝えた。伊波さんも沖縄の今の若者に会ってみたいと話されていたことを思い出した。紹介した数日後、伊波さんが喜んで出迎えて下さったということと、伊波さんの元気の良さと、奥さんの若さに驚いたということのメールが野中君から送ってきた。
伊波さんは2度結婚なさった。バンコク近郊のナコンチャイシイで鉄工所の仕事で成功をおさめておられたが、タイにおける不動産の所有をめぐって、先の妻と離婚された。なんでも、利権争いで別れた訳ではなく、不動産の商売をなさっていた当時の華僑の奥さんは、タイにおいて伊波さんが外国人(日本国籍)のため、土地の購入に際して、奥さんにとっては不利にあたる。(外国人は原則としてタイの土地を購入できない)そのため、会社の法人登記がタイ人と日本人の鉄工所となっていたため、離婚に至ったそうだ。
数年後、58歳で40歳年下の女性と再婚された。氏の若い時の写真を見るとかなり色男である。40歳の違いは、さほど苦にならなかったと振り返られる。
伊波さんと2度目の奥さんの間には、僕と同い年の一人娘がいる。サトウキビという意味のオエさん(29)にはすでに男の子ヒロヤズ・スパコーン(7)君がいる。
名前は、役所に提出した時に、ヒロヤズ・イナミとなったため、戸籍では苗字がヒロヤズとなっている。ヒロヤズ家族に招かれて夕食を共にしたときに、スパコーン君とオエさんに、お爺さんの戦時体験を聞いたことがあるかと尋ねた。「戦時中に、シンガポールにいて…」とこれ以上は聞いたことがない。伊波さんもまた「いい思い出のある時代のことではないので、家族には語っていないです」と。ならば、この場で聞かせることはどうかと思い立った。

シンガポールで沖縄の地上戦を聞いた時の話」をして下さった。
先の大学生の野中君もまた伊波さんの家を訪ね、氏から戦争に至るまでの話を聞いたということだった。僕自身、大叔父の戦時中の体験を聞いたのは、この取材が始まってからだったが、何らかのきっかけがない限り、身内の戦争体験を聞くことすらない。
一度、オエさんが早く帰宅した日があり、伊波さんと一緒に並んで撮影に協力していただいた。娘のオエさんに父親が日本人だけど、日本や沖縄についてどんな関心があり、思い入れがあるのですか?と聞くと、小さなポーチの中から、大事そうに保管されたお守りを出された。タイのバンコクでは、大学入試の競争率はかなり激しく、入試の時に伊波さんの兄から送っていただいた学業お守りだそうだ。
学業お守り。日本に関する大事なものだということだ。
そもそも、父親が日本人であるから、あまりに近すぎてそのようなことを意識したこともないという。ただ、父の母国語を知りたいと思い、日本語を一時勉強したが、今の生活の場であるタイの山奥で勉強するのは、難しくて中断しているということだった。
そんな話を終え、自家用車で宿まで送ってくれた。「いつか日本に行けるならば、沖縄よりも東京ディズニーランドに行きたい」とスパコーン君とオエさんが漏らされた。