長崎の藤田松吉さん

motokiM2008-01-26

「今の日本の連中とは話が通じん」長崎県生まれの藤田松吉(90)さんは初めて自宅へ伺った日にそう煙たがれられた。以来、話が通じるようになるべく僕は、何度も足しげく通うことになった。
僕が通いだした頃、なんでも同時期に藤田さんを取材していたあるカメラマンが、藤田さんの寝床の枕を踏みつけたまま撮影をしていたことがあったらしく、同じようにカメラを持った僕を「うろうろして、枕を踏むな。そこは寝るところ」と煙たがられた。
自宅に伺うたびに、自宅内で撮影するなら500万バーツ(約1500万円)支払ってくださいというのが、挨拶代わりとなっていた。お支払いはできないですが撮影させてください…と言って話を続けていただくのが関の山で、初めの3日間は、戦争の経緯を説明されるのが精いっぱいであった。
藤田さんの自宅は、タイ北部のチェンマイから乗り合いタクシー(ソンテオ)で1時間半ほど行ったランプーン県パサーン郡にある。チェンマイから藤田さんの自宅へ向かう時、乗り換えで立ち寄るランプーンの書店にて、置かれている読売新聞の国際版を必ず購入していた。新しい新聞を渡すたびに「最近の日本語は読みにくい」と難癖をつけられるのもまたあいさつになっていた。口は悪いが、それを嫌みに感じさせないのも藤田さんの魅力と感じた。
在留証明書の書き換えなどで、毎年、藤田さんの家を訪れていたメーソットの中野さん曰く「奥さんが8年ほど前に亡くなられて以来、藤田さんはすっかり気を落とされました。元気にいろんな所を飛び回っておられたのですが、今は戦争で負傷された左足が動かず、家にこもりっきりになられましたね」と。
その藤田さんの自宅に行くときに目印となるのが、慰霊塔である。この慰霊塔には藤田さんの歴史が詰まっているため、長い説明が必要となる。
昭和14年、長崎で馬車曳きをしていた20歳の時、2年間の兵役に志願で早く入って、早く兵役を終えようと思いたち、陸軍に志願入隊する。藤田さんは、長崎の大村で入隊し、久留米で菊兵団に編成された。配属された師団は、菊の紋章をかたどり陸軍の最強部隊とうたわれていた。日中戦争の時は広東省にいて戦果をあげた。大東亜戦争が始まり、マレーからシンガポールを転戦。「シンガポールではシナ人の女子供の虐殺に加わった。とにかく無茶苦茶だった。なにも作戦に自分から好んで進んでやるのではない、命令が下ったらそれに従うのが、軍隊というものじゃ」と語られる。
2年間の兵役のつもりが、大東亜戦争が発動され兵役がずるずると長引く。昭和17年、ビルマのラングーンに送られた。昭和18年末、インパール作戦発動の前に、菊兵団4000人の将兵は北ビルマのフーコン作戦に投入される。
蒋介石率いる国民党へ送られる膨大な物資は、東インドからビルマ北部を経由して中国の雲南省へ送られていた。いわゆる援蒋ルートを遮断することが、この作戦の目的とされ、菊兵団は、それまで負け戦を経験したことがなかった。
しかし、ビルマ北部フーコン付近にて風土病にやられ、マラリアになる将兵は当たり前。マラリアは病気ではないと師団命令が下される。しかもタナイ河の対岸に陣地をとった米軍式の装備をした国民党軍に徹底的にしてやられた。
このとき迫撃砲により藤田さんは左足を負傷した。その怪我が原因で交代が遅れた。飢えと風土病により、部隊は壊滅状態になった。
藤田さんは、この時、雨あられのように砲弾が飛んでくるフーコンの塹壕で、女の写真を見て泣いている初年兵を見つけた。「ここに何しに来た。作戦に来て泣くな」と問い詰め、頭をスコップでかち割ってしまったそうだ。それを思い出すと今でも心苦しくなるそうだ。
なぜ、藤田さんがここに残ることになったのかという話は、年を召されたためか、聞くたびに経緯が変わる。ただ、毎度のこと「わしは逃亡兵ではない」と必ず前置きをなさる。大まかな話の流れは、左足のけがが原因で後退が遅れた。終戦後、部隊を探せど、見つからず。部隊があるはずの北タイのチェンマイにやってきたが、誰もいない。どうしても日本に帰りたいと申し出るが、誰もうてあってくれない。12年したら再び日本軍がやってくるという噂話を聞きつけ、タイ北西のメーホンソンあたりでシナ人の農作業を手伝いながら、身を隠していた。60キロの荷物を担いて、人一倍、仕事をしていたが、身分がはっきりしないため、労働賃金が叩かれる。
戦後、再び日本軍はやってこなかったが、代わりに高速道路をつくる日本企業の前田建設がタイにやってきた。タイ語ができる藤田さんは、現場で監督になった。日本の企業に尽くし、高速道路をひたすらつくり、その功績をタイの高官に認められ、タイ国籍を取得した。そして、日本に帰るために貯金をし始めた。
 貯金でランプーンに家を構え、戦後10年ほどたったある日、何度も夢に日本の兵隊が出てきて、ここにおるから探してくれと藤田さんの枕もとに立たれた。中には、古井戸の中にいるから引き上げてくれと具体的に場所を伝える英霊もやって来た。それ以来、足が動かなくなるまで、ひたすら遺骨収集をなさった。帰国のための貯金は、遺骨収集に投入された。
藤田さん曰く、1000体以上を収集できたが、まだまだ遺体は眠っております。それに付け加えて日本の遺骨収集団がある時期にやって来たけど、何かわからん数字だけ確認して、途中でまた来なくなったとこぼされる。
こちらの人は慰霊塔を自宅の敷地に作ることにあまり好意的に見ない傾向があるらしい。通常は、寺に遺骨を置くそうだが、藤田さんは自分のところに英霊に来ていただきたいと家の敷地に作った。英霊が彷徨っているならば俺のところに来いと、自宅で英霊と弔い、あやめてしまった人々に対する追悼を行っておられる。
ただ、一昔前までは訪れる人々や藤田さんご自身によって慰霊塔は清掃されていたが、今は近所のクボタさんの好意によって、時々、慰霊塔を掃除をしてくれるだけだそうだ。その話を聞き、いつも撮影をしてゆくだけなので、僕も訪れるたびに花を添え、草を刈ることにしている。
最近は、少しずつだが、僕の日本語が通じているような気がしている。(続く)