京都の花岡さん

motokiM2008-02-23

機械油のにおいがする自動車工場に行った。バンコクの中心部からチャオプラヤ川を隔てたトンブリー。工場の前にトヨタのロゴがある、車の修理工場であった。
「日本の人ですか?何の用ですか?」花岡稔さん(84)は、僕を先に見つけられた。身の丈180cmはあろうか、これまであった80代〜90代の方の中で最も背の高い人だ。僕が、カメラを持っていたためか「あなたは、新聞屋さんか何かですか?」と矢継ぎ早に問われる。昔堅気の方とうわさされる花岡稔さんは、はやく何者か名乗れと言わんばかりだ。
昨年の旧正月前、バンコクスクンビット通り沿いで中華料理を食べながら、花岡さんのうわさを聞いた。「花岡さんは、昔堅気の方なので、一人で行くと追い返されるかもしれないね」と言う。そのため、昭和30年代からバンコクに住んでいる日高富士夫さんが好意で、花岡さんの事務所に連れて行ってくれた。だが、タイミング悪く僕は、緊張をほぐすため工場の外でたばこを吸っていときに声をかけられた。たばこを吸っていたからいい印象ではないだろう。日高さんは、事務所の中で花岡さんを待っている。丁寧に、携帯灰皿にたばこの吸い殻を入れる。
一通り、記録映画を作ろうとしていると自己紹介を終えると「もう、昔から何度も、テレビや新聞などいろんな人が取材に来ました。話を聞きに来て、それが記事になったかどうかも知らせない。どうなったか連絡もこない」ということで、まずは、取材は受けてくれないという雰囲気になった。僕と花岡さんのやり取りを見つけた日高さんが、ようやく助け船を出された。
大正12年京都市下京区にて、父、当吉のもとに生まれた。昭和19年、22歳で現役。京都の祭師団の二等兵。日本軍の最も下の階級である。
昭和17年から20年までのビルマ戦線に送られた日本軍の兵員数は、33万人であり、戦没者は19万人である。10人に6〜7人の割合ほどが亡くなっている。
京都から出てきたばかり現役兵の花岡さんは、昭和19年発動のインパール作戦の補助要員の祭師団の独立歩兵の二等兵として送られてきた。
輸送船で、台湾を経由しシンガポールに送られた。鉄道でバンコクに到着し、そのまま、泰緬鉄道でビルマのモールメンまで送られる。ラングーンで中隊が再編成される。その時、花岡氏は、配属された中隊長に、車の運転ができるかと聞かれた。たまたま実家が京都で建材を扱っていて砂利などを運んでいたので、トラックの運転ができた。「車の運転ができるものは、一歩前に出ろ」と言われ、それで一歩前に出た。それで歩兵として前線に送られることが避けられた。
昭和19年3月、同じ輸送船でラングーンに送られてきた中隊の歩兵は、第15師団のインパール作戦の補充に回された。うち、9割が戦没した。氏に今も命があるのは、車の運転が出来たからであると話された。
現在は風光明媚なビルマの有名な観光地のインレー湖のそばにメイミョーという町がある。そこに日本軍の司令部があり、司令部から物資を前線へ運び、往復していた。「もう、戦局も悪化していて、撤退してくる兵隊の収容。ビルマに着いて散々な目にあったんです」という。
昭和19年7月にインパール作戦が中止になる。日本から南方に送られて実に半年の間である。「当時は、車の運転をしていて、他の人に比べるとずいぶんと楽な目に逢いました。私など、マラリアにかかって後退していったのですから、まだましです。手足がない兵隊が亡霊の如く歩いていたのです」マラリアにかかっていた兵隊は当り前で、病人として扱われなかったというから、散々な時代だっただろう。
初めて外国に連れてこられたのが、これからインパール作戦が発動するという昭和19年の2月ごろのビルマである。その時の氏の感覚は、今の時勢に、たとえることはできないが、例えばの話、大学生の旅行者が春休みに、初めて、インドのデリーに行き、生水にあたって感染症にかかり、タチの悪い不良インド人に、無理やり法外な値段の列車のチケットを買わされて、現金を失って、散々な目にあって、2度とインドに行かないと決めるような次元ではない。
終戦は、ビルマのモールメンという町で迎え、連合軍によって、タイに連れてこられた。連合軍とタイ政府の間で、日本軍の将兵を泰緬鉄道の修復の使役に使うという噂話が、収容所の中で話題になり、花岡氏は、「これ以上の使役は御免」ということで収容所から逃げ出した。
そして、バンコクの西部のバンポンという町で隠れながら暮らしていたそうだ。
氏は、話の途中、時計の時間を気にしておられた。
仕事は、今も現役で、ご自身が社長の車工場を見て回っておられる。
どうやって自動車工場を作ったのですかと、僕が聞く。「散々な目を見たんです。それからこの工場を持つまで詳しく話をすれば、明日になります」と言われた。
一日の取材では、難しいと判断した。
これで帰りますと言うと、花岡さんの妻ソンバット(74)さんがお茶を持ってこられた。
日曜日、教会からもどってなら時間が取れると言われ、再びお会いしていただくことになった。
帰る間際にお茶を出していただき、京都人が早く客に帰ってもらいたいときの作法を、ここバンコクでも同じように続けておられると感じた。
(続く)