大川にて

motokiM2007-03-22

母方の大叔父に戦争体験の話を聞くために実家に戻った。大叔父はビルマ戦線で狼師団という独立自動車隊にいた事を、取材でタイにいるときにブログを読んだ母親から聞いた。実際、家族以外はほとんどこのブログは読んでいないと思うが。母親からその話を聞いた時、ちょうど同じ時にビルマで自動車部隊に居た坂井さんの取材をしていた。

大叔父はビルマで自動車部隊の中隊長をしていた。大叔父に聞いてみたいことがあった。戦後、何らかの技術を持った日本兵は、その所属する部隊によっては、軍を出て、その技術を生かして、隠れながら暮らしていたということを坂井さんなどの取材を通じて知った。

そこで大叔父に、敗戦後、ビルマに残るという選択肢もあったと思うが、帰ろうと思ったのはなぜかと?聞いてみようと思った。愚問は承知だったが、彼は答えた。「家族が待っておるし、おいが還らんと部下に対して責任を果たせんようになるけん」当たり前だったが、家族というのは祖母もそのうちの一人であるということをしみじみと感じた。

自動部隊にいた大叔父は88歳の今でもマニュアルの車に乗り、300キロくらいの距離は運転できるという。しかし最近は体が弱り、運転後、体調を崩すこともある。医者に200キロまでにしていてくださいと止められたらしい。未帰還兵の取材をしなければ大叔父の戦争経験はほとんど知らなかった。
大叔父は戦後、10年も経たないうちに自分の家のそばに慰霊碑を作った。そして、戦友や部下の死んだ状況を詳しく調べ、遺族に伝えるため奔走した。50回忌においてはビルマに再び足を運んだ。
子供のころ祖母から聞いていた大叔父の戦争体験というのは、ジャングルで大変だった程度のことしか覚えていなかった。一昨日からの取材では、大叔父の名誉にかかわることをずけずけと質問して、質問するこちらが戸惑い、気力が続かないくらい取材後に落ち込む。しかし、大叔父は話す。
今回取材させてもらった方々は、若いやつに話さなきゃならないという義務感もあってか、聞くこちらが頭が痛くなるような話をしてくれた。

自宅で取材したことを文書をまとめていると、うちの親父が本日の夜しこたま酒を飲んでいたので、しらふの僕に車で迎えに来いという電話をかけてきた。車を走らせながら、小学校のとき、魚釣りをしていた堀が埋め立てられ、かえるを捕まえて雷魚の餌食にしたり、爆竹をかえるの口に入れていた田んぼが全国チェーンの大型パチンコ屋になっていた風景を目にした。
高校のとき商店街にあった小さなパチンコ屋は既になくなり、駐車場に変わっていた。今の高校生が大型のパチンコ屋に行っても、店のおやじに「馬鹿が、ここは大人の遊び場たい。学生服のまんまで来るな。着替えてちゃんと頭ばセットして来んか」と怒鳴られないのだろう。
そういうことを思いながらおやじを車に乗せた。
うちの親父に「田んぼは埋め立てられて、地元の利益はほとんど資本力の強いパチンコ屋に吸い取られて、なにが発展か分からんね」というと、親父は無言に近かった。
実際、大川にはたくさんの大型パチンコ屋がある。昔は田んぼと木工所とタンス工場と家具屋しかなかったけど、今はそんな町になっている。
郷愁の想いは帰郷するたびに強くなり、この町を出て十年以上経つが、この町のために何もやっていない僕は一体何なんだと自分自身に問いかける。