伊藤さん、ご苦労様でした。

8月26日、夕食のため外出し、編集室へ戻り、テレビをつけると、アフガンのペシャワール会伊藤和也さんが映っていた。編集の辻井さんに「大丈夫、伊藤さん現地の人に信頼されているから」と言い、僕は、そのままアパートに戻った。以前、伊藤さんに大変お世話になっていたからだ。
 その後、一連の報道を見続け、ネットに書き込まれた悪意に満ちた心無い内容を目にするたびに、苛立ちがあった。そんな中、バンコクでお世話になっていた某局の元支局長に、伊藤さんの写真や動画の有無を電話で聞かれたが、突然すぎで、反応に困った。探せば、一緒に流しそうめんを食っている写真や現場の写真があったが、今の段階で僕の意思でご提供できるものではないと判断し、断った。夜な夜な、何度もネットに接続し、安否を確認した。
 27日、お昼過ぎ、殺害のニュースが出た。また誤報かもと思った。呆然としたまま、今後のスケジュールの打ち合わせで、僕は、新百合に向かった。製作の安岡さんは、毎日が修羅場のようなスケジュールを抜けて、打ち合せに出てきてくれた。「伊藤さんは、先輩なんだろ。今回の件で、俺は、松がパキスタンに飛んでも何も言わないぞ。ただ、後悔するな」実は、今、作っている映画の完成までのリミットをあと1ヵ月程度と考えている。にもかかわらず、笑顔はどこか目が笑っていない鬼のような人だが、安岡さんは、今日ばかりは言葉が優しかった。
7時半ごろ、帰りの電車、小田急線の参宮橋で人身事故が起こって、電車が止まった。目の前にいる年のころ小学の低学年の二人の子供を連れた母親が「電車の事故で、多くの人が動けなくなるの。こんなことして、迷惑なことをかけるようなことはだめ」といっている。その風景を見たとたん、たまらなく、気が気でなくなり、ペシャワール会ワーカーだった日本にいる鈴木さんと橋本さんに連絡をした。
「本当なんですかね。また、誤報ってことないですか?実感なんてないですよ。伊藤さんに、僕、相当、現場でお世話になってますからね、実感なく、信じられません、ただ、なんとなく今年はやばいと思っていました」伊藤さんと用水路工事現場で長く働いてきていた鈴木さんに電話を入れ、本当に事実かどうか、確認するためだったが、鈴木さんも何か信じられない気持を共有しているようで、心が宙に浮いたまま、携帯電話を持ち、僕は登戸駅を浮遊していた。
「彼が誘拐されて、殺害されたまでの時間、ほんと怖かっただろうね。何があったんだろう。何か、俺も実感がわかなくて、何だか、信じられないんだ。ご苦労様でしたという気持ちだね」伊藤さんにとって、先輩だった橋本さん。熱血という言葉が一番似合う人だが、このときばかりは、声がさびしかった。用水路事業と農業事業で、伊藤さんと一緒にいた方だ。
電車の人身事故発生から1時間半、電車がようやく動き出し、アパートに戻る。
午後10時過ぎからヤフーのニュースを見た。伊藤さんの志望動機がネットで公開され、遺体が運ばれる写真が出た。特に、テレビの映像は、とても刺激が強すぎた。
それまで、実感がなかったが、堰を切ったように、嗚咽と共に涙が出てきた。
アパートの棚から、昔の日記やメモ帳を引っ張り出し、正確な記憶がよみがえってきた。
 4年前の7月、ペシャワール会のワーカー希望者として志願した僕に、クナール川の用水路工事現場で初め、手取り足取り教えてくれたのは、伊藤さんだった。
 初めて現場に行った日、ジャララバードの7月はとても日差しが強く、のどが渇いていた。伊藤さんのまねをして、バケツに入ったヒンドゥークシ山脈の氷河から流れ出た濁った川の水をそのまま飲んだ。そしたら、案の定夕方に、熱を出し、腹を壊し、寝込んだ。
「松林さん、焦る気持ちはわかりますが、習うよりも、現場に慣れてください」伊藤さんはそう言って、よく冷えたメロンと真っ二つに切ったマンゴーを置いて、僕が寝ていた部屋を出た。
 当時、伊藤さんは、現場に来て半年以上たっていた。用水路現場で明日の資材の準備と、日雇労働者への日当を準備して相当忙しかったにもかかわらず、現場に着いたばかりの僕が食事当番をし、夕食の準備と朝食の準備をしていると、必ず、率先して食事の支度から洗い物まで手伝ってくれる人だった。
「別に嫌で手伝うわけじゃないんですよ、僕、料理作るがほんと好きなんすよ」伊藤さんの料理は特にうまかった。
 バンジャンロミー(トマト)入りのカレーや肉じゃがを上手に圧力なべを使って作り方を教えてくれた。はじめのうち、15人分のご飯を炊くとき、失敗して米が硬くなっても、そのうちうまくなりますと、何もお咎めを受けなかった。
 タイに立ち寄ったある先輩が、土産で持ってこられたタイカレーのペーストがあった。タイカレーを作るにあたって、ナリヤール(ココナッツ)が必要になったが、どこにあるかわからない。ココナッツを探しに、バザールを一緒に歩いた。ミルク状態になっているココナッツはなかったが、実がそのままで売られている硬いココナッツがあった。誰も割り方がわからず、橋本さんがハンマーで砕いて、中身をスプーンで削って、圧力なべで柔らかくして、ジャララバードでタイカレーを作った。ココナッツの中に入っていた水は、最後の隠し味として、マグカップに保管していたが、事情を何も知らない、ハウスキーパーのカカジャンに飲み干された。
 またこういうこともあった。日本では、プロパンガスは通常、ホースでコンロとつなぐが、あちらはプロパンガスの上にそのままコンロがある。年に何回か、やはり爆発事故も起こるという。その時、スタッフハウスのガスコンロは、明らかに火のつき方がおかしく、非常に赤い炎が出ていたが、伊藤さんは怖がる僕をよそに、なにも言わず、火を率先して止めた。
 朝方3時に起きて朝食をとり、4時には現場に行っていた。毎朝、ラルサイードというドライバーは、子供がコーランを読むカセットテープを持ち、その心地よい音で、現場まで向かっていた。
 現場では、トランシーバーを使ってパシュトゥー語で指示を出す伊藤さんの後をついていくのがやっとだった。労働者から分け与えてもらうパニールという山羊の乳で作ったチーズとドデイ(ナン)を食べながら、午前10時の昼食をともにしていた。カルダモンが入った甘い緑茶のチャイにドデイを浸して食べている伊藤さんの姿が鮮明に目に浮かぶ。
伊藤さんのサポートで現場にいるうちに、日雇労働者に現金を配る仕事を任された。「日雇労働者に現金を渡すときは、ご苦労様でしたと、必ず握手して相手を尊重してください」と指示を受けた。
その後、僕は会の活動から離脱し、東京のアパートに送ってもらう会報で、みんなの動向を読んでいた。いまでも僕の心には、途中で離脱した罪悪感の意識があり、なかなか正面切って、今も活動の前線にいる彼らと連絡がとれない。いつも、このことを思うと、自分自身の虫の居所がなく、なさけなくなっている。取材でお世話になっている日本に還らなかった兵隊さんの気持ちは、途中で離脱したということに関して、これに少し通じるのかもしれないと思えるところがある。
 そもそも、僕が「やっぱり映画を忘れられずにいます。映画を続けたいと思っている気持ちがまだありますが、みんなにお世話になっているから、どうすればいいのか分らないです」と初めに相談したのは、直の先輩であった伊藤さんだった。
 4年前の2004年9月8日。たまたま休日になり、にもかかわらず、仕事熱心な先輩に付き添い、明日からの工事現場の視察に行き、お昼過ぎにスタッフハウスへ帰る帰路で相談した。
「志があるところに進むべき道がありませんか」シェイワ村を過ぎ、いつもタバコを買っている店でペプシコーラを飲み、韓国製のたばこを一緒に吸いながら話をした。「僕はこれから先も、何年もここで活動をつづけてゆきます。何年いても構わない覚悟でここにきていますから」伊藤さんは、僕が続けるかどうかの賛否ではなく、彼自身の道を僕に諭した。
 その4日後の12日、伊藤さんは一時帰国をした。ぼくが最後に会ったのは、ピックアップトラックに乗り、現場から約10カ月ぶりに日本に帰る姿だった。ネットで公開されている車に乗っている伊藤さん写真のそのままである。
その後、僕は、帰国した。
 正直、今もって、書ききれない伊藤さんへの感謝と、この結果に対する悲しさを指し示す矛先もなく、どうにも言えない気持ちであふれている。ただ、どうかこのブログを見た人で、わずかながら、僕が知っている伊藤さんの人となりを伝えることができればと判断し、あえて書くことにした。昨日、編集の辻井さんと話し合って、この件で、どこにも飛ばないことにした。
あれから4年は過ぎたが、志した方向に、今、僕はヨチヨチながら道を歩んでいるだろうと思う。
だから、僕は、今まさに目の前にあるこの映画を作り上げます。