インドネシア残留日本兵

一週間前に帰国した。

今回、アチェの和平合意に関することについて取材に同行させてもらったのだが、ふとしたきっかけで、残留日本兵3世と縁を持った。
残留日本兵という言葉を聞くと、とても特殊な感じの印象を受ける。グアム島横井庄一元伍長などのイメージに特化される。
実は昨年、一時、インドネシア残留日本兵について調べていた。僕の関心は、なぜ残ったのか、そして、その後の人生を彼らはどう生きたのか。そこを知りたいと思った。それに関する映像や文章もかなり出版されている。しかし、僕の視点は以下の点だった。

昨年の6月、メダン在住の残留日本兵の一人、中村さんに手紙を送った。

中略
鬼籍に入りつつある戦争を経験した世代と、社会に出ようとする世代との間には、戦争に対する認識に大きな隔たりがあります。ぼくは異なる世代間における戦争に対する認識の違いを知り、個人史的な視点で、戦争に人生を左右された人物たちの人生観を見つめたいと思っています。
中村様たちの人生の分岐点は「戦争」だったと察します。祖国日本のため参戦した中村様が、図らずも、敗戦によりインドネシアに生活の場を選ばざるをえなかった必然性をしりたいのです。
僕らの世代は、貧しく飢えることを知らないです。「戦争」も知らないです。ですが、経済的に豊かなことが、必ずしも幸せでないことを知っています。一見、物に囲まれ自由に見える僕らの世代の生き方は、主体的にそれを選んでいるのではないのです。仕組まれた「商業戦略」に組み込まれ、経済戦争の真っ只中の時代に、行き場のない難民のように立ち往生しているのです。目に見えない何かに追い詰められ、僕らの世代は自分自身の心の中で戦争が行われているのです。
僕らの親である現代日本という国は、経済的な豊かさを求め、若い世代を省みなかったと感じています。かつての日本もアジアの繁栄という名目のもと、若者を見限ったかと思います。
そんな僕らの世代に、中村様のような方の生き様を知ることによって、僕らの世代が生き延びてゆく知恵を授かりたいと思っています。
中略

彼から結局返事は来なかった。

彼らにすれば、ある日突然、最後の一人まで闘うと誓っていた日本という国が負けた。それまで信じていた価値観ががらりと変わった瞬間に、人はどうやって次の生きる道を探すのだろうかと。それを知りたいと思っていた。
インドネシアでは、戦後、約1000名の日本兵が残留した。そして、オランダ軍による再植民地化に抵抗するために、独立戦争インドネシア軍と共に戦ったという。その理由には個々の必然性がある。とある本によれば、大東亜戦争大義を1000名それぞれが自分ひとりだけでも任務を遂行しようとした人々であるとされる。しかし、資料をあたっていくだけでも、その大義を全うするためだけに残留したケースは稀だった。
また、日本軍の憲兵だった人の場合、地元住民や捕虜の虐待によってBC級戦犯になり、再びインドネシアにやってきた連合軍によって殺されるということを恐れて、留置所から出て、残留したと言うケースもあった。
また、オランダの再植民地化に抵抗するため、日本の軍隊教育を受けたいとインドネシア人の要請により独立戦争に参加したことも読んでいた。しかし、その動機だけでは、他の帰還した日本兵にも同じような条件が与えられているが、なぜ彼らが残ったのか、もっと別の必然性を知りたいと思った。
インドネシアに日本軍は3年半ほど駐留したのだが、当然、駐留中に人の交流、文化交流があった。そして、そこで家族を持ったから、そこに残ろうと決心した人もいた。イスラム教徒の多い、インドネシアで家族を持つことは、彼ら自身もイスラムに入信しなければならない。どういう経緯だったのか、一人一人違う。また、半強制的に残留させられたというケースもある。
その理由は僕らが考えているよりももっと単純であり、ただ、自分自身に当てはめて考えれば、戦争に行き、突然日本という国が消滅したという状態で、次の生きる道を模索していった過程に、インドネシアという土地に残ったのだろうか。何が残留を決めさせ、そして、その後の人生をどう生きたのか、やはりそこに関心がいく。
大東亜戦争の意義を一人でも遂行すると決心し、インドネシア独立戦争を戦ったというのは、一つの事実だろう。しかし、今の日本と、60年以上前の日本を同じ視点から語るのは、あまりにも急な話だ。これまで触れた書物や映像でも、その大義以上に、何らかの必然性を教えてくれた。
そのため、残留の理由を知るためには、答えを一つに絞らないこと。何かこれだと思うような答えはない。一人の中でもたくさんの影響があり、一つに絞れない。まして、1000通りの生き方がある。その1000通りの生き方を残してゆけたらすごく有意義なことだと思う。しかし、2005年8月時点でインドネシアに残った1世の日本兵は8名だとされている。しかも、スマトラ島には現在2名がご健在だ。とにかく、彼らの声を聞きたかった。
1月9日の朝、ロクスマウェに滞在中、スケジュールが固まりつつあった。遠藤さん、谷沢さんと取材の最終日である11日にメダンに立ち寄ることが決まった。Mr高須と事前の電話連絡でアポは取れたが、Mr中村の所在は、僕が持ち合わせていた資料と情報が古かったため、連絡がつながらなかった。手紙が届いていたのか確認すら出来ていなかった。また、彼は若い世代との接触を断ちつづけていると情報を得ていた。