スノンボンバイユック

motokiM2005-12-30

ここの村までの移動は、とにかく大変だ。この前のクアラシンパンウリム村が橋とあぜ道の移動が面倒だというならば、この村は、ぬかるみがとてもひどい。舗装されていない雨季のアチェの道は、路面がドロドロ。ひとたび、バイクのタイヤが道に挟まると、スリップを繰り返し、身動きがとれない。時にはバイクから降り、ぬかるんだ道を歩かなければならない。
村に到着した。この村にはDNA遠藤さんと谷沢さんは、5月の取材の時点で訪れていた。そのVTRの編集を手伝ったことがある。そのときは、GAMアチェスマトラ民族解放戦線)の活動地域だったため、国軍のパトロール部隊の護衛がしていた。村人は戦闘のため全員避難して、家々も焼かれたり、壊されたりしていた。生活感のない、廃村だった。
そして、国軍が撤退し半年振りにもどると、村は生活感が芽生えていた。
村ではじめに目に付いたのは、洗濯物が干されていた。商店もあり、アチェコーヒー屋では、村人が、大事そうにコーヒーを飲んでいた。商店には、日本語のカタカナでホッキドとかかれた(北海道のことだろう)お菓子が売られ、インドネシアの日本に対する感覚を嬉しくさせた。村を撮影していると、ネコが簡易食堂の周りを、自由気ままに歩き回り、ニワトリが周りを飛び跳ねていた。その食堂で昼食とることにした。
鹿の肉のココナッツカレー煮込みが店先に置かれ、初めて食べるその肉の味は、案外やわらかくさっぱりしていた。空気銃を持った男が、食堂の近くにいて、この銃で鹿をしとめたと自慢げに語った。その奥に足を進めると、庭先で青年が友達同士で髪を切っていた。
営みを感じた。
数名のインタビューを終え、道を戻ろうとしていると、老人が橋のそばの丸太に座り、夕方佇んでいた。
彼の視線はこちらを何気なく意識していた。おそるおそる、彼からどこからきたのか尋ねられた。日本からきたと答えると、話を切り出してきた。
彼は、72歳。日本時代のインドネシアを知っている。彼が生まれた村は、ここではないが、日本時代に教育を受けた。当時、インドネシアにいた日本軍は、とても規律がとれていた。しかし、その反面、高圧的な態度の人もいたと言う。
日本軍がやってきたときの事を聞いた。
ある日、日本軍はインドネシアにやってきて、駐留していたオランダ軍を追い出した。しばらく日本軍がいたが、新型爆弾が落ち、日本軍がインドネシアから撤退した。その後、オランダ軍が再植民地化するためインドネシアを侵略してきたとき、インドネシアに残留していた日本兵独立戦争を共に戦った。そのとき、インドネシア軍は武器の使い方を知らず、残留日本兵がその指揮にあたったと言う。
まるで、おじいさんが孫に昔話を聞かせるように語った。
すると急に、彼は、匍匐前進の格好をとり「これも日本が教えたよ」と。続けて立ち上がり、日本式の回れ右をして「インドネシアの人は右足を前に出すけど、日本は右足を後ろにするんだ」と曲がった背筋を伸ばしながら説明した。
日本語で覚えているのは、、、「いち、に、さん、し、ご」これくらいだねと言った。
そして、彼は再び丸太に座って、遠くを見ていた。
戦後、インドネシアの地に踏みとどまった残留日本兵は、1000名以上がいたといわれ、独立戦争で半分以上が亡くなった。2005年8月の時点では、8名がご存命だ。
現場で日本は勝ちつづけていると聞かされていた兵隊さんは、ある日、日本という国がなくなったと出兵中の海外で知った。中には、負けることを意識していた人もいただろうが、時代の宿命の中で、人生をどうすることも出来なかったかも知れない。
僕がこうやって海外に出かけられるのは、戦後、急速に発展を遂げた日本の経済力のおかげだ。僕が生まれたときには、モノと情報にあふれていた。僕の家庭は、いわゆる中流家庭だった。しかし、モノと情報に満ち足りた生活の中に、僕は何かに飢えていた。それが何かは未だはっきりとわからない。ただ、人を豊にするのは、お金だけではないのかもしれないと悶々とした思いを漠然と持っている。戦争が終わり、60年経った日本では、戦争の色は未だ残っていると感じている。戦後、その色をカモフラージュするために、色を塗り重ねている。いま、その戦争の色は、徐々に滲み出して来ていると感じてしまう。
今の日本という国が、ある日突然なくなった場合、僕は滞在先の国に残留日本兵のように生き残れるのか判らない。