12・26 津波後一年の村の道

motokiM2005-12-26

インドネシアアチェ県、クアラシンパンウリムという漁村に行く。
DNA遠藤さん曰く、ほんの2ヶ月ほど前までこの村まで行くためには、国軍の厳しいチェックがあったという。断っておくが、今回この村に行くまで合計3回ほど、地元の警察に自ら出頭し、事前に取材班が到着したと報告し、許可を得ている。
以前、クアラシンパンウリムの入り口にある村の交番は、とても高圧的な態度だったと言うが、今回、僕の感じでは、やしの木の囲まれた交番は、とても落ち着いている。客間には14インチのテレビが置かれ、テーブルにの周りには、イスが並べられている。そして、仲間で暇つぶしのときに使うのだろうか、紙のトランプがあった。警官の雰囲気もアラレちゃんに出て来るペンギン村の警官のようなのんびりした交番だった。
交番があるところから20kmはなれた海沿いのクアラシンパンリウム村は、90年代から継続的にインドネシア国軍と闘い、99年より、国軍の駐屯地が置かれていたっていたために、戦闘で家を失った住民がいる。そして、2003年の5月より、この村は、戒厳令が出され、2004年5月から非常事態宣言が出されていた。(現在は解除された)
まず国軍との戦闘で家を失った住民は、村から15kmほど離れた交番の近くの仮設バラックに移住した。さらに昨年の津波が追い討ちをかけるように、徹底的に村を破壊した。
ほんの数ヶ月前まで、戦闘と津波の難を逃れた住民は、村より15キロほど離れた仮設バラックに住んでいたが、村人の半分は、海の近くに家を再び作り、村に戻ったと言う。
しかし、交番から5kmほど離れているところに、いまも仮設バラックはある。
バラックがある所からクアラシンパンリウム村まで15kmほど離れた道のりだ。津波の影響で、道も橋も破壊され、簡易的に作られた橋の幅は30cmほどである。人が歩いて一人通れる幅だ。日本の自動車学校の二輪車教習で必ず行われる「一本橋教習」の感覚だ。
村までの道は、海に近いため、田んぼにはクリークが張り巡らされ、10箇所以上、上記のようなラワン材の板の上を原付バイクで移動しなければならない。もちろん車は通れない。村には、電気も水道もガスもない。
津波後、ちょうど一年が経つ12・26。私たちは、一周忌をこの村で迎えようと言うことになった。海外や日本の大手メディアはバンダアチェを基地にしているが、私たちは、シンパンウリムにした。昨日、バラックであった村長は、まずは道を整備することが今後の一番の課題だと言った。そして、12・26にモスクで慰霊祭があると話を聞いていた。遠藤さんの判断で夜8時半ごろまで、この村にいようということになった。
昼間、整備が整っていない道を経て、ようやく原付バイクで村に到着した。遠藤さんは、村が活気を帯び、家々が再び立ち並んでいることに、感心していた。村の男は漁に出ていた。しかたなく、夕方まで私たちは、漁の取材に出かけたり、村の生活風景を撮影したりして、この地方名産のドロドロとして甘くて苦いアチェコーヒーをのんですごした。そして、10月にジャングルから下りてきたばかりの元ゲリラ兵にインタビューをしていた。この村の9割はGAMアチェスマトラ民族解放戦線)のシンパであり、元ゲリラだと言う。
日没後、モスクに住民が集り始めた。遠藤さんの懐中電灯が壊れていたので、モスク近辺の映像を彼のメインカメラに任せ、夜の撮影に向けて9月にアフガンで買った懐中電灯を彼に渡した。僕と谷沢さんは、モスク内の映像を撮影した。
モスクにはジェネレーターがあり、電気が来ている。
光のない村の中でモスクは煌々と輝いていた。
そして、モスクの隣にある集会所で、村人たちに食事を招かれた。一周忌で村人と飯を食べた。僕はアチェ語はもちろん、インドネシア語もわからない。彼らも英語も日本語もパシュトゥー語もわからない。
言葉だけではないコミュニケーションは、貧乏旅行中に感じとった。詳しい言葉が通じないときは、ひたすら、相手を尊重して接すること。99年当時、国境で必ず賄賂を要求することで名高かったカンボジアの警察もそうだった。賄賂を要求されるより先に満面の笑みをもって握手をする。手を触れた瞬間に、表情を無表情にする。現金にしか頭にない警察は、ひたすら金を出せと英語で言うが、英語がわからないふりをして、無表情のまま、微動だにしないでいる。そして相手が怒り出すと「お金は払えない」といい「貴方のような方が、このようなことをやられるなんて、カンボジアはたいへんな国ですね」と念を押す。そうするといつのまにか出国スタンプが押されていたことがあった。こんなやつからお金は取れない、イミグレで働くカンボジアのエリートの自尊心がそうさせたと、いまは思っている。
話は、アチェに戻る。食事中、クアラシンパンウリムの男は外国人のほとんどはスプーンで飯を食べると思い、スプーンを食事する食べ方をジェスチャーしてきた。普段より、箸を使い慣れている日本人の私たちは、手で食事をすることが器用ではない。しかし、手で飯を食べるのは、慣れているので彼らの申し出を丁重に断った。
夜8時過ぎに皆で食事を終えた。
1周忌は終わった。
暗闇の中を取材班3人で、15km離れたバラックまで戻ることになった。車までは、15kmほど離れている。再び、原付バイクで移動しようとしたら、ぽつぽつと雨が落ちてきた。
慌ててカメラをレインコートに包み、その上にビニール袋をかぶせた。
雨季のスマトラ北部の準備は雨よけが重要だろうと、出発の時点から想像していた。カメラとテープ素材が僕の生活の源。これを守ろうとひたすら意識した。
バイクが、車のあるところへ向けて出発しようとしたとき、雨は小ぶりになっていた。バイクが、どんどん前にすすむにつれて、雨がひどくなった。この雨の中、30cmほどの板の上を、バイクの運転手の男は、無理なくいけるのだろうかと、すこし心配していた。
雷の音が近い。
雨は、スコールになった。
雨は、湯気が出ている様にもくもくと蒸気が立ち込め、シャワーを全開にしているよりももっと強かった。
メガネをかけている僕の視界は、全くさえぎられていた。裸眼は0.1ほどだが、スコールの中は何も見えない。そんなときよくフィクションの世界で起きることが現実に起きた。
突然、バイクの運転手のライトが切れた。
この周りには、電気は通っていない。日本の暗闇の10倍は暗い。
何も見えない。
先にバイク一台、後ろにバイク一台。僕は真中を走っていた。バイクの運転手はライトを直そうと、ライトを叩いているが、再び灯る気配はない。運転手は、アチェ語とインドネシア語のみ解す。お互いの言葉のコミュニケーションはない。
状況を知ってもらうために、後方のバイクを待つことにした。後ろからやって来るのは、遠藤さんか谷沢さんかわからない。スコールでバイクの光も見えない。
スコールはたちこめ、1分ほど止まって待っていた。不安が募った。もしクリークに落ち、カメラと素材が台無しになったら、ここにきた意味がないなと想像した。朝まで歩いてカメラを守りながら、この道をいくのは大変だなと。
そして、不安が不安を呼び起こし、色んな事を思い出した。
今年の10月、アフガンで滞在していた宿の部屋で、バックパックの奥底で財布をカモフラージュし、1万円札を封筒に入れ隠していた。しかし、出発の数日前に、突然、リュックの底からお金だけが消えていた。僕の部屋に入れるのは、仲のよいアフガン人スタッフだけだった。もしかして君が盗んだのかと言いたかったが、それまで信じていた彼を疑いたくなかった。誰も疑いたくなかったので、責任は自分にあると強く意識して、自分の心に閉まっていた。
そして、アフガンから帰国して、風邪をこじらせ、ダラダラと本を読むだけのだらしない生活が続いていた。そうしているうち彼女に愛想をつかされ、足早にとっとと逃げられた。
これでカメラと素材を失ったら、今後の僕の人生は、どうなるのかと不安が募った。
すると、バイクが後ろからやってきた。
遠藤さんだった。先ほど貸したライトを思い出した。
「遠藤さん、このバイクのライトが切れたので、先ほど、お貸しした懐中電灯を使って良いでしょうか」と申し出ると、
何も言わずに懐中電灯を渡してくれた。
三人それぞれが、素材とカメラをどうやって守り、車まで持っていけるかに集中している。僕も腹にリュックをおき、運転手の背中にぴったりと合わせた。移動中の雨はこれである程度防げると。
運転手は、懐中電灯に明かりを灯した。バイクに大きな振動が起きると、ライトは20秒ほど点灯し、再び、ライトは消えた。
僕らのバイクは、先頭に走ることになった。メガネは、目の前が曇るだけだったので、ポケットに入れた。裸眼になった。
不安定なライトの光だが、運転手の表情を見ると、光が消えても全く焦っていない。
心配していた30cmの板の橋も、運転手の懐中電灯を頼りに、滑り落ちることなく前に進めた。
そして、落ち着きを取り戻し、周りを見ると、雨の中、数匹のホタルが暗闇の中を飛んでいた。
スコールの中で、その自然の力に感動した。全てが洗い流されていく感覚だった。
そして、車の場所に着いた。
車のとめられた近くには、簡易アチェコーヒー屋がある。戦闘と津波で避難している村の男たちが、たむろして暇をつぶしている。こんな土砂降りの中、村の男からご苦労さんといわんばかりに挨拶を受けた。
そして、すぐさまカメラの作動確認をすると動いた。テープも無事だった。安堵していると、遠藤さん、谷沢さんも到着した。それぞれがカメラと素材を安全に運べたことに喜びあった。そして、どろりとしたアチェコーヒーとのんだ。
僕と共に来た運転手は、再び降りしきるスコールの中、ライトがないまま村まで戻らなければならないだろうと思い、谷沢さんに通訳をかってもらうことにした。アフガンにて二束三文で買った懐中電灯だ。明日、町で新しいものを買えばよい。夜道の安全の方が大切だ。彼に懐中電灯を渡そうと思った。彼と言葉のコミュニケーションを行なった。
ところが、この男「今日は、村には戻らん。ここに泊まる」という。しかも、照れながら、続けて言うには「実は、ライトはいらん。ライト無しでも夜道は走れる」という。
なぜかと聞いてもらったら、「電気がないのは慣れている」といった。
僕は、アラレちゃんのように「ホヨヨ」と感心した。
僕はてっきり忘れていた。彼が元ゲリラだと言うことを。
そうだ、彼らGAMは国軍に夜襲をかけるとき原付の明かりなんて灯せない。目立って標的にされるだけだ。
夜、歩くときも懐中電灯も灯さない。ひっそりと闇の中に同化している。彼らは2ヶ月前まで、暗いジャングルの奥で軍事活動をしていたのだ。彼らの感覚は、僕らの常識ではないところにある。五感は研ぎ澄まされ、忍者のようになっている。
移動中、自分の視覚だけに頼った僕の感覚は乏しくて貧しい。
そして、彼は「万が一、バイクが転倒して、あんたが堀に落ちた場合を考えて、頭にライトを灯していたんだ。本当に、あなたと荷物が無事でよかった」という。つづけて、「日本語で心配するなと言いたかったけど、判らなかったよ」と笑いながら言った。彼にとても感謝した。
すると、むしょうに腹のそこから笑い声が上がってきた。
ずぶ濡れになった服に夜風が吹くと、妙に心地がよかった。