テロ

実家の姉から以下のメールが16日に送られてきた。


今月25日博多駅でテロがあるらしいけど、知ってる?友達が先生してて、生徒の弟が博多駅イラク人らしき人に道案内したら、あんたは親切やったから教えるけど25日に博多駅?でテロがあるって言われたらしいんよ。


はじめは、軽く「デマだよ」と姉に返信したが、数時間して、気になりだした。ちょうど前回のブログを書いていたころだったからだ。
2歳上の姉は、僕と違い小学校のときから成績優秀の女の子だった。姉はとても素直で明るいな人のなので、友人もとても多い。そんな姉から上のメールが来た。
早速、姉に以下のメールを送った。



かな

先ほどのメールでは僕は、消化できない思いがあります。

テロに気をつけてといっても、これだけはどうにもならないものです。
どこで起きるのか判らないものです。いまや日本に住んでいてもテロの恐怖はあります。アフガンにいてもその恐怖はあります。そして、テロと関係ないと思い、平和に日本で暮らしていても、若者たちは心の中に闇を抱え、心の中で内戦が行われています。七輪と練炭をもって車の中で、自殺をする若者は後を絶ちません。今の日本はとても奇妙な国なのです。

アフガンの若者に七輪と練炭と車を持って何をするかときけば、商売を始めて、きっとカバブ屋(焼き鳥屋)だというでしょう。日本には、生きる希望を失っている若者はたくさんいます。

そして、かなのメールに一言
25日の博多駅はきっと何も起こらないことでしょう。彼らの活動は、きっと誰にも判らないように行われます。しかし、今の日本はご存知のように親米政権となり、中東各地の人の恨みを買っていることだけは間違いないです。

僕の姉として、一つだけ感じてほしいことはテロリストにも親や兄弟がいます。
彼らも人の痛みはわかる人間です。彼らの大切な誰かが、アメリカの攻撃によって命を奪われたとき、彼らの活動はますます過激になります。

きっと彼らの兄弟や家族を失った者が、過激な活動を行っていると思います。
そこで想像してほしいのは、彼らが何で、今日本をターゲットにしているのか
その日本に暮らす若者は、彼らをどう受け止めて生きるのかそこが大きな課題だと思います。

僕ら日本人にとって、受け取る情報が一方的なのでテロリストにも、敵の人間にも家族がいるという想像力が抜けているようです。
お互いが知るきっかけさえあれば、彼らも人間であり、人の痛みがわかる人です。
お互いが信じている神の違いこそあれ、みんな人の心をもっています。

僕らは大量の物資に囲まれ、ひっきりなしに情報の流れがある時代に生まれました。
豊かなものに囲まれているので、誰かから与えられた豊かさを正しいと信じ込み人に対するの想像力を失っています。それは中東のことだけではなく、日本における家族のあり方に関してもそうだと思います。

(中略)

今回受け取ったメールから感じることは、報道で流れてくるイラクの人の行動に対する恐怖心から、ニュースをどう受け止めていいのかわからず、つまらないうわさだけが世の中を走りめぐっているとおもいます。

でもかなだったから判ることだと思います。
このままでは日本でもテロはきっといつか起こります。
しかし、それを止めることが出来るのは、僕らの行動なのです。
テロや外敵に対する恐怖から、過剰な警備と防衛を要求して、自分たちの行動を正当化するのは、60年前の戦争で、すでに日本は経験していることです。
(中略)
もとき




姉とは実家に帰れば、一緒に餃子を食べにいったり、日帰りで温泉に行ったりする仲だ。しかし、姉に真面目に僕の思うことをメールを送ったのは、これがはじめて。姉からもらったメールには、明らかにテロに対して不安な気持ちが綴ってあった気がした。
いつもほとんど用件のみしか伝えていない連絡だが、姉に僕の言っていることをどう思うのかと気になり、今日電話を入れた。
姉は「結局、うわさが空回りして、デマやったみたいやけど、テロがあるけんていうて、仕事は休めんけんね」そうやねとうなずくと「でも、あの人たちの気持ちは判らんね。肯定はできんね」それも判る。「でも、何でこげんなるのか、よう判らんね」そういった。僕は「結局、日本にいるイスラムの人は、敵視している人も多いけど、まだ、テロげな起こしておらんけん、彼らを色眼鏡で見ることが、彼らとの関係をますます悪くさせるちゃないとやろうかな。もしも間違ってオレがテロに巻き添えになって、死んでしまったらどげん思う?」そういうと姉は「そげんね」といい納得した。
僕の家族では、方言を使った電話での話では、微妙なニュアンスがあり、それ以上語らなくてもお互いが、何となく理解する瞬間がある。もちろん会っている時も、それ以上しゃべらなくてもわかっている瞬間がある。
そして、姉の仕事は朝が早いので、寝てもらった。
このメールのやり取りを行う前まで、僕が思っていることは実家に住む姉にすら通じていなかった。家族と言ってもつまるところ他人だけれども、身近な人にこういう思いが伝わっていないことを虚しく思った。
気がつけば、姉に色眼鏡と言ったが、僕も色眼鏡で物事を見ることがしょっちゅうある。色眼鏡で人を見ることが、相手を無自覚に傷つけていたと感じたからそういった。たまたま、アフガンに友人がいるだけだが、僕の友人が色眼鏡で見られている気がして、悲しくなった。そこが姉にメールを出した動機だったかもしれない。
そして、その中の誰が次のテロリストになるか判らない。カーブルの街中で、新聞を売っていた少年も、大事な友人にもその可能性がある。誰にもその可能性はある。強い怒りや憤りを感じ、その後に、他人の世界観を感じ取れなくなったときかもしれない。
一見、普通に見える日本に暮らしている普通の青年も、他人の人生はもちろん、自分の人生へ想像力を失ったとき、人は考えることをやめるのかもしれない。
もちろん、僕にもその可能性は潜んでいる。それは、姉がテロに巻き込まれて帰らない人になれば、どう受け止めていいのか判らない。
僕にもその可能性があることを知るために、夜な夜なメールの切り貼りをしながら、文章を書いている。
ただ、姉からもらったメールの中に出てくるイラク人が、道案内した博多の若者が親切だったから、あなただけにはテロを教えると言う部分に、この話の中に希望を見出さずに入られない。まだ、思考は停止していない。