〔カーブルの高校〕

motokiM2005-09-27

「カーブルの高校」


昨日と今日で、対話プロジェクトの学校の生徒が全て決定した。すでに、学校は決まっている。カライチャルディと、デイクパック高校だ。


こちらのクラス10は、日本の高校生の高校一年になる。日本では何か特別な理由がない限り、15・16歳だ。小学校の頃から数えて、10年目だ。すでに小中で9年間を日本は過ごしている。しかし、こちらの10年生は18歳や19歳が多い。勿論16・17歳もいるが、希だ。殆ど、帰還難民。彼らには、戦乱があり、高校一年生で19歳や20歳がいる。それが特に珍しいというわけではない。


日本側とアフガニスタン側で共通した自己紹介用紙を用意していただいた。その答中で、一つとても興味深い答があった。貴方の国で好きなところと、嫌いなところを聞いた部分だ。嫌いな部分のみ、白紙の答があった。その他の質問の殆どの部分は埋まっている。しかし、この場所だけ、白紙だったり、嫌いな部分を聞かれても、なお自分の国の好きな部分を書いている生徒がいた。また、男子生徒の中には「戦乱があったため、僕らの国を嫌いだ」と書いている学生がいた。実際、難民として外国で暮らした彼らには、自分の生まれた国に対して、強い気持を持っているようだ。反対に、日本の場合はどうだろうかと、不思議に思った。


彼らから見れば「先進国」である。先進国を何で基準にして測っているのか、それが日本側で、今回の学生の対話の重要な話になるかもしれないと思っている。一体僕らが住んでいる日本てどういう国なんだろうと思うきっかけを持つかもしれない。



かくいう僕も、貧乏旅行で海外を訪れて以来すっと、日本という国はどんな国なんだろうと考えている。アフガニスタンの学生は日本と言う国のことや、日本の学生を、どう思っているのだろうか。例えば、アフガニスタンの老人と会うと、僕が日本からたと言えば「あなた方日本とアフガニスタンは同じ日が独立記念日なんだよ」と言われる。勿論そのことは、若い世代の学生も知っている。日本とアフガニスタンの独立の基準をどこに置いて、そう言っているのか。彼らが言うには、それは1919年第一次世界大戦が終わったときだ。その時の条約でアフガニスタンは独立国家として認められたという。



いま手元に、歴史の資料がないから、きちんとしたことを言えないが、大正8年のことになる。僕らの祖父・祖母の世代になる。「日本と独立記念日が同じだ」という話の次には「しかし、アフガニスタンには戦争があって、経済的にこんなになって、発展していないだろう?」という。また、僕が60年前の戦争のことを説明すると、「広島と長崎」は知っている。「あの爆弾は酷いんだろう」と聞かれたことがある。また、「実際、何人か日本人にあったことがあるけど、何で、日本人はこんなにメガネをかけているのか。それはやっぱりあの爆弾のせいか」と真顔で聞く。その表情には、冗談のかけらもない。



また、アフガン人のメガネ君はまず見たことがない。大学の学生やクラスで数人見かけた程度だ。勿論コンタクトをしている者はいない。その理由は、強い砂埃のため、ソフト・ハードレンズは使用不可能だ。僕も高校生以来、メガネを掛けている。こちらの人で近視の人は多くない。日本で戦争が負けたことを知っているが、彼ら高校生の、現在の日本についての知識、先進国と言うことに集約されると思う。ただ、かつて僕が貧乏旅行していたとき、サッカー選手の中田英寿がイタリアのセリエAに移籍した。そのころ、中田選手をミャンマーやインドやシリア・レバノンなどで、「日本の中田はスゲーなー」と言われたことが何度もあった。今回のアフガン側の学生は男女の比率として、女子生徒が多い。中田選手などのスポーツ選手の話題は、アフガニスタンではどうなのか。



話は逸れたが、僕は戦後の日本の中流家庭に生まれた、戦争を体験したアフガニスタンで暮らす彼らに比べると、物に溢れてほぼ何不自由なく生活できた。アフガニスタンの人々に触れるたび、もしかすると経済的に豊かなことだけが、豊かさの基準にならないのかもしれないと感じてしまうときがある。僕はたまたま、経済的に豊かな国に生まれて、貧乏旅行ができた。そのため、双方の事を考えるきっかけを持つことができた。いまは、もっと根本的な人間の姿を強く知りたいと思う。アフガニスタンの学生と日本の学生の双方への関心が生まれるきっかけに、このプロジェクトが行われることを望んでいる。