〔アフマドの飯〕

motokiM2005-09-23

「アフマドの飯」


現在お世話になっている下宿先に、家事全般をやってくれる男がいる。彼の名前はアフマド・ドゥラー(34歳)本日、彼は自宅に戻った。


一週間の中で木曜日の夜から、土曜日の朝まで自宅に戻る。こちらの休日は金曜日。彼には家族がいる。妻と二人の息子と四人の娘がいる7人家族。アフマドが持つ携帯電話には、息子の写真がある。こちらの携帯電話にも、日本でおなじみの携帯で写真を撮って誰かに送る「写メール」のような機能が搭載されている。息子の写真を見せてくれた。子どもの表情から彼は、家族を大切にしているようだ。


彼が自宅にいる間、二日間くらいは、飯を自分たちで作らないとならない。


彼が作る料理はとても旨い。アフガンの家庭料理を作ってくれる。材料費も外食と比べると、三分の一の費用で押さえられる。外食で、3人で食べると300アフガニから500アフガニの間だ。日本円では、900円から1100円の間くらい。自炊すれば、100アフガニから200アフガニ。そうなると、かなり食費は安くつく。


そのため、週の5日間は彼の食事を取ることになる。彼の料理の特長は、調味料を使わない。そのかわりに、たくさんのトマトを味付けに使う。こちらのトマトは、とても旨い。果物をはじめ、旨い食べ物が多いこの地方だが、トマトに限らず、果物やトマトの味が濃厚に感じる。日本で同じものを食べるとすごく水っぽく感じる。真っ赤なトマトをふんだんに使った彼の料理は、ほぼ毎日食べても飽きない。大量の羊の脂を使い、トマトと肉で味付けしたカラヒという食べ物とも違う。彼はできるだけ、サッパリした日本人向けの味付けをしてくれる。


彼はパンシェール渓谷の村の出身だ。ちなみに彼と通訳のモハマディンは、いとこになる。こちらでは、親戚や兄弟で同じ仕事場で働くことが多い。


二十年前、彼は、ソ連政権の時代に、村からカーブルに住みついたという。そして、その当時も生活は楽ではなかったという。


ソ連はムジャヒディンとの戦争を行っていた。その時代に、戦車に乗っていたそうだ。彼が言うには、「おそらく18歳の時、ソ連製の戦車に乗っていた」そうだ。このアフマドに限らず、アフガン人のほとんどは、正確な年齢はみんな知らない。時々、自称の年齢が変わることがある。それに合わせて僕も時と場合を考えて、年齢を言う。


ぼくが「ソ連の戦車に乗っていて、ムジャヒディンだったと?戦車は盗んだの?」と聞くと、アフマド少々恥ずかしそうに「ムジャヒディンじゃなかった」と言った。アフマドは、アフガニスタンに駐留していたソ連を追い出したいわゆるムジャヒディンではない。その逆で、ムジャヒディンがカーブルにくるのを拒んでいた立場だった。そもそも、彼は共産主義を信じて闘ったわけではなく、パンシェールの村からカーブルに移り住み、飯を食べるために、軍人になったそうだ。そうはいっても、彼は戦車に乗っていたことを話すとき、普段はかなり控えめな男だが、少々誇らしげになる。


ソ連時代に、カーブルに移り住んだ理由はまだきいていない。ただ、ソ連時代に、軍で働いていたことは、彼の人生にどう影響を与えたのか分からないが、彼が恥ずかしそうにムジャヒディンじゃなかったといった表情が、彼自身の中に何かあるのだろうと感じさせた。


彼は、軍人時代に料理を作っていたそうだ。


身近な仲間のために料理を作っていたという。彼の食事のレパートリーの多さに納得がいった。彼の味付けは、みんながそれぞれ、塩と胡椒で後から調整できるように味を薄めに作られている。