坂井勇さん(2)

坂井さんの家に数日お世話になった。
お話を聞いているときに、何度か坂井さんの奥さんを見かけていた。覚えたての単語を駆使して、タイ語で話しかけた。ところが思った以上に非常に僕を気に入ってくれたようだった。はじめはなぜか理由は分からなかったが、飯を食べてゆけと誘われた。断る理由も見つからなかったので、そのまま彼女のご飯をいただいた。
気を配ってくれて、昼間の食事の残りといって恥ずかしそうに出された手作りのビルマ料理と、ご丁寧に、町の中心にある日本のスーパーマーケットのような華僑が建てた店からわざわざ日本のコンビニで売っているようなパッケージされた日本のすしを2パック買ってきていただいた。ビルマ料理と日本料理が目の前にある。どちらに手をつけようかと迷うことなく、とにかく、その日は腹が減っていたので、彼女のビルマ料理を真っ先に食った。
ビルマ料理は旅行中に知り合った旅人の間で言われるのが「ビルマ料理は中華のような油とインドの香辛料が混ざった料理」とあまり旅行者には評判がよくない。
話は少しそれるが、今から6年前、僕はビルマの山奥へ行った。そのときにシポーという村に5日間くらいいた。日本兵が通過した村だということをそのときに聞いた。たくさん人が亡くなったということも。それ以外に、日本人の旅行者にとって何もない村だったが、映画館があった。そこで、映画が上映される時に日章旗がスクリーンに掲げられ、軍艦マーチが流された。
戦時中の日本がそうやっていたのだろうと僕は想像した。
その町で毎日ビルマの料理を食べていた。雷魚のから揚げが特にうまかった。毎日同じ店で雷魚のから揚げとビールで夜を楽しんだ。雷魚はうまかった。後に「雷魚のから揚げ」が僕を帰国後日本で腸チフスにさせて、隔離病棟へ導いた食事かもしれない。
つまり、僕には正直、一度あたって以来、ビルマ料理にあまりいい思い出は無くなっていた。
パーマメンさん(75)が作ってくれたビルマ料理は見た目もまさに素朴な家庭料理そのものであった。春菊のようなおひたしと、豚の油煮。もちろんビルマ料理なので油がずっしりとくるが、それがこちらの米と非常にあう。飯をお代わりした。気を使って、先にビルマ料理を食べたわけではなく、自然とそのまま食べた。
食事している僕を見て彼女は喜んでいた。そして、気がついたら、わざわざ買っていただいた日本のすしが残っている。すでに飯を2杯お代わりをしている。普通一人だったら食わないが、わざわざ買っていただいたすしを残すのも悪いので、2パック必死に食べると、ばあさん食べ終わったときにこの上ないほどの「大笑い」。
いくら僕が飯を良く食う方だといっても、通常の4倍くらいは食べている。
その食いっぷりが気に入られたのか、明日からここに泊まれといわれた。遠慮していたが、ほかに断る理由も見つからないので、そのまま泊まった。
話をしていると、坂井さんは今年孫を失ったとつぶやいた。その孫はサムライさんという。”イサム”の”サム”の部分をとっておばあさん(パーマミャイさん)が名づけたという。
話を聞くと僕と同い年だった。ご夫婦にインタビュー中に「あなたの顔が孫にそっくり」何度もそう訴えかける。実際に写真を見せてくれた「はれ、どんな顔やら」と。
東南アジア系の僕に似ている。僕が肌の色が黒いせいもあり、ほとんど彼の肌色と変わらず、えくぼができるところまで一緒だった。不思議にそのことを感じていた。
メーソットの町で看護婦をする娘さんが言うには、おばあさんもおじいさんも悲しんでいたところ、孫に似た日本の若い者がカメラを担いでやってきた。そして、非常に飯をたくさん食う。あなたがきてくれて、二人は喜んでいると。
それで、ずうずうしくも予定を延ばして2日間坂井さんのご自宅にお世話になった。
朝から晩まで飯をたくさん食べることが最高の美徳のように食え食えと迫られた。
坂井さんの家の敷地は、大体の感じが京王線の渋谷駅ほどある。かなり広い。しかし、坂井さんの家は、こじんまりとしている。
その家の裏にはビルマから戦争難民として逃げてきたパオ族とカレン族が住んでいる。もともと坂井さんは、ビルマのカレン人部落に住んでいた。それと昔からカレン族とパオ族は仲がよいという。
ビルマでは、ビルマ独立後、独立を求めるカレン人とビルマ人の内戦があった。その過程でカレン人にはキリスト教徒がおおいので米国がキリスト教徒のカレン人を支持すると、ビルマ政府は、これまで敵だったカレン人の仏教徒を支持し始めた。そこで内戦が内戦を呼び、戦争が激化。1958年坂井さん一家は、ビルマを離れタイに難民として入国した。

坂井さんは日本の兵隊を離隊した後、カレン部落で10年以上住んでいた。坂井さんは自動車の修理が得意で、機械類はたいてい直せた。独立自動車部隊だったため、自動車の修理などを中心に、米を脱穀する機械を設置して、精米所を経営した。兵隊の経験のおかげで、タイでも仕事をうまく続けてこられた。そしたら、大きな屋敷になっていた。
昔カレンの部落の人にはむかしお世話になりましたからといって、彼自身もこじんまりとした家に住んでいて、自宅の裏の大きな空き地にパオ難民を土地代も取らず無料で住まわせている。
難民というと暗いイメージだったが、実際に家に行くと裏では、日曜の昼間に闘鶏に熱中する親父さんたちが、そのイメージを払拭させた。子供も女もみんな集まって熱中していた。

坂井さんと奥さんは今も仲がいい。日本人の僕がいると日本語で「オトウサン、ゴハンデスヨ」とふざけあっていた。ちなみに12年前の12月3日(日曜)は僕の母方の祖母がなくなった日である。あれから干支が一周した。そんな日に僕は、坂井さんの家でまるで本物の孫のようにお世話になった。なにか、不思議な縁だなと思いながら。