パーケオ

今はタイの北西にいる。
メーホンソン県のクンユアム村というところ。ミャンマーの国境まで30キロ。乾季のタイ北部は朝とても冷え込む。今朝は15度程度だった。昼間は30度をこす。寒暖の差が激しい。中学校の理科で習った、放射冷却現象が起きる。昼間は、全く雲ひとつ無い藍色の空がある。
ただ、周りを熱帯雨林に囲まれているために、朝方冷え込んだ空気が、急に太陽によって温められるため深い霧が朝焼けと平行して徐々に発生する。そして、10時ごろまでに藍色の空が徐々見えてくる。
村には、県立の「第二次世界大戦博物館」という名前の建物がある。名前が示す「博物館」というには規模が小さい。建物はおよそ100坪の平屋建ての日本民家に相当する。展示物はほぼ日本兵に関するものばかり。銃などの兵器は少なく、衣類や水筒など日本兵の使っていた日用品があふれ、生活が行われていたことを想像させる。ちなみにメーホンソン県では約7000から8000の日本兵が力尽きたとされる。

この村にはインパール作戦野戦病院や基地があった。当然、日本兵と地元の人間と交流があった。

このバーケオおばあさんはフクダという日本兵と結婚した。結婚して8年が過ぎ、3歳の長男と3ヶ月の二男を残したまま、フクダは帰ってこなかった。フクダは地元の警察に連行され、バンコクにつれてゆかれたという。その後、彼がどうなったかは分からない。
僕がフクダはそのままバンコクから日本に帰ったのではないの?とバーケオさんに聞くと、それまでにも何度も帰るチャンスはあったが、彼は村にとどまった。連行されたその日まで普通の生活をしていた。すぐに戻ってくるというという気持ちで待った。しかし、戻ってくることはなかったといった。

そもそも、マラリアで倒れていた日本兵のフクダという男性を父親が家に連れてきた。このバーケオさん、はじめはフクダのことが好きではなかった。彼女と同じシャン族の男性と結婚するつもりだった。
しかし、いったん病気が治るとフクダは良く働いた。働き者という意味あだなの「サンペー」と呼ばれるようになった。次第に好きになったという。工兵だったため、壊れた機械を直すのが得意だった。村の人が彼に壊れた機械を持ってきた。
村にはほかにも数名の日本人がいたが、それぞれ日本人であるということを隠していて、日本人同士でシャン語で会話をしていたという。
日本人と結婚したということで村八分になり、息子たちを一人で育て上げた。