バレー部だったころ

昨日のことやったけど、高校の時の友達がJTのバレー部の通訳をやっていて、試合を見に行ったとです。

通訳は通称、カメというあだ名で、良くも悪くも腐れ縁で、
20代のころ、私が世田谷の経堂に住んでいた時は、カメは隣の千歳船橋に住んでいて、
金がなくなると、二人で焼酎を買ってちびちびやっていました。

そんなカメが転職して、バレーの通訳をやっているので、恐る恐るバレーの試合を見に行きました。
なぜ恐る恐るかといえば、バレーから逃げていたからです。
福岡県庁のそばにある福岡市立体育館という建物でした。
実はわたしは中学の時バレー部でした。
全国大会にも出てベスト8でした。
優勝したチームを一番苦しめたほど、結構強いチームでした。
そんなかで一番へたくその選手でしたが。
ふと我に帰ったら、1993年に県大会の決勝戦をこの会場で試合をしたんだと思ったとたん、逆算したところ22年も前じゃないですか。
ある選手のプロフィールを見ると93年生まれとなっている。
驚きを越して、自分が生きていた時間を逆に意識しました。

高校の一年の時に交通事故にあって、膝を割って以来、続けて走ると水がたまる癖がつきました、
それでバレーをやらなくなりました。

それは言い訳で、たぶん自分がうまくないことを知っていたからでしょうが。
JTのチームのコーチをなさっている徳元さんは、中学一年のころバレーの九州大会で見かけて以来、
頭のどこかに、天才的な選手というのはこういう人だろうと思っていたところ、
昨日の試合で、JTのコーチをなさっていることを知り、遠くから拝見して涙が出るほどうれしかったです。

あこがれていた選手が、いつの間にかコーチになっている。
しかも、私と同じ年齢の選手なんていない。

宮下さんという同じ高校からJTに行った選手ももう引退していたということを改めて知りました。
同じ年の選手がもうほとんどいないことを考えたら、私はバレーを続けていたら引退していたんだと思いました。

まあ、バレーを続けなかったから、こうやって映画のことをやっているんだなと、つくづく痛感しました。
映画を作っている人としては、まだ、新人の登竜門みたいなものです。

高校の時の同級生は、変わったやつが多く、折に触れて連中のことを紹介したいです。