中学校の同窓会

というものを、昨日、開いていただいた。
今回、福岡での上映の宣伝を兼ねて福岡県大川市に戻っている間に。
中学校の友達らが、計画してくれた。
感謝。

子供のころは、家具の生産量日本一の街と聞いていたけど、いまは、そのような面影を感じない。
以前もこの日記で書いたけど、かつては、家具屋の看板ばっかりが目立つ国道208号線だったけど、パチンコ屋がド派手な看板を出している。
昭和50年代後半、歌のベストテンでタンスをかついで演歌を歌っていた大川栄策氏もこの町の出身だが、タンス工場の町工場なんてほとんど見かけない。
正確に統計の資料をあさっているわけじゃないけど、半分以上の町工場は無くなっている。
夏の夜は土曜夜市が開かれて、大川のぎんざ商店街がにぎわっていたが、今は他の日本の地方都市と同様に、商店街の代名詞のようなシャッター通りが目に突き刺さる。
帰省するたびに、町の変化に目を奪われる。
もともと、筑後川沿いの町が、家具の生産地になったのは、江戸時代のはじめごろから、日田の天領から、杉とヒノキがいかだになって送られてきていた。ニワトリと卵の関係のように、どちらが先かはわからないが、川沿いに木場ができて、船大工が生まれた。そして、船大工が、家具職人、建具職人となった。そして、大川の産業が家具になった。
しかし、昭和28年の夜明ダム完成により、いかだで流れてくる材木の姿は消え去った。
そして、国内産の材木は、徐々にその存在を消していった。それに反比例し、海外から大量の材木がこの町に送られた。
もちろん、ぼくの中にいかだで材木が流れてくる当時の風景は、知らないが、大川をはじめこの地域が、戦後、経済発展する中で失ったものに対する郷愁に似た感情が芽生える。一体この町をこのようにさせたのは、何だったのか、それを知りたい、と中学時代の友達に熱っぽく話をしていた。
すると、酒に酔い潰れて二日酔いになっていた。
何も出来ていない状況だ。